診察 16 依頼
「ドクター、まずはお座りください」
背後から声がかかった。もちろんアイリーンさんである。
相変わらず気配のない人であった。
思えば中学生の時に出会ってから二十年以上が経っている。恐ろしいことにトモノブにはあまり変わらないようにみえるのだ。侯爵夫人などには、いまや首相にだってなれそうな貫禄がにじみ出てしまっているというのに、この人には老化という概念が欠けているのか。ついこの前にハタノファミリー専属となったエマなど既に大人の風格さえ垣間見せるようになっているのに。
自分の専門とは分野が違うと、ここは判断を放棄するトモノブであった。
「トモサン、突然お呼び立てしてごめんなさいね。ぜひこちらの方の力になっていただきたいのよ」
侯爵夫人がいきなり要件を切り出した。
「貴方もご存知のこの方はね、私の大事なお友達なの。窮地に陥いって困っているのよ、貴方の力でなんとかしてちょうだい」
この人に頼まれて断ることは事実上不可能だ。まずこの人は不可能な事は依頼してこない、困難に思えても実現の可能性があると判断してねじ込んでくる。そして昔からトモノブはこの人に弱い、そしてたぶん正しいのだろう。結果として自分は子供を二人も得てここにいるのだ。
とはいえもう少し事情を聞かせて欲しいものだ。
「奥様、あとは三春様からご説明していただいてはいかがでしょうか」アイリーンさん、さすがのフォローである。
三春さんが話を始めアイリーンさんが同時通訳を始めた。三春さんの言葉を一切遮らずに日本語を英語にしていくのだから恐れ入る。さすがのトモノブも混乱しかけたが久々のおっさんが登場してきて対応できた。三春さんの言葉をおっさんが聞き、アイリーンさんの言葉を僕が聞き、僕ちゃんがそれを統合した。
別にそんなややこしいことをするべき内容ではなかったのだが、おっさんがそれを欲したのだ。
おかげで話に区切りがついたところでトモノブは即答することが出来た。
「いつから治療に入れますか、三春さん」と。
彼女の事情はこうである。
彼女の所属する歌劇団は来年英国公演を行う事になった。既にメンバーや演目も決まり、三春さんも目出度く選抜されていた。そして一出演者としてだけでなく、団員を統括して公演を成功に導けとの大命を受けているとのことだった。
舞台人としての実力、経験、そして人望から、各組からの混成となる団員をまとめるには最適の人選であるとの選抜理由である。
受けたい、そしてやり遂げたい。ただ一つの問題さえなければ。
返答を保留して彼女はここに来ていたのだった。
彼女の体調管理についてトモノブは大阪在住の医師を紹介していた。国際学会で知己を得た人で信頼できると思い、彼女の体調を現状よりも詳しく伝え予防に努めてもらっていた。
その甲斐もあってか、かつてよりも病状の発現も含めて体調は順調であった、はずだったのだが。
「最近のデータです」
そう言って彼女は資料の束を出した。
明らかに各データは悪化を示していた。普通なら疲れが溜まったのだろうと見過ごすところだが、主治医であるかの医師は的確に診断し、発症を宣言していたのだった。
そしてトモノブのもとに送られるべき資料を患者本人が持参してきたというわけだった。
「あらあら久しぶりにトモノブが慌てているわね」
侯爵夫人は緊迫したやり取りになってきているにもかかわらず、面白そうに三春とトモノブの様子を見ていた。アイリーンの完全実況付きで。
トモノブが慌てているのはその目を見れば一目瞭然なのだ。昔からこの子はこんなことがよくあったのだ。それまで普通だった黒目が突然ブレるのだ。気づかないふりをして観察してみると目が細かく振動しているように上下左右に動いているのだ。どうかすると言葉遣いも少し乱れたりする。
最初は随分と心配したのだが、どうもそれは彼が考え事をしているときの癖だとわかってからは逆に面白くなってきたのだ。息子に聞いてみると当然のように気がついていた。試合中に一瞬あの表情が出ると直後にスーパープレイが必ず起きるのだそうだ。
妹の方は一瞬のまばたきだと思っていて「私が困ったりしたら目をパチパチして解決してくれるのよ、魔法使いみたいでしょ」と無邪気に喜んでいた。
本人はそんな自分の癖に全く気がついていない様子だった。
そんな癖もダイアナが天国に召されてからは見ることもなくなっていた。彼は常に穏やかで慌てることもなく日々を過ごしていたのだ。
どうも私や夫には魔法を使う気は無いらしい。
「ちょっと憎らしいわね」とアイリーンにぼやいたこともあったのだが、ここであの表情が見られるとはしてやったりである。
娘にも教えてやりたいものだ「貴女の魔法使いさんは久しぶりに復活したようよ」と。
「トモノブさん、この件には侯爵家が全面的に協力しますからね」
会話の切れ目に一言添えてやった。
トモノブは目を丸くして、バチバチした。




