診察 12 坂本先輩の悩み
ローリーはロンドンの街なかを一人で歩いていた。侯爵家暮らしももう随分と長いから、たまの街歩きは良い気晴らしになる。
別に今の暮らしに不満があるわけではない。どんなところにいても日常にはそれなりに飽きがくるものなのだろう。それは仕方がないことだ。もう冒険にあこがれる年でもないだろうし。
でもこれから会おうとしているのは、年上の癖にまだあきらめていない人だ。
「まあ、ローリー!久しぶりね」
建物にはいったとたんに声がかかった。なんとまあ、この人まだいたんだ。
「こんにちわ、何年ぶりかしらね」
「そうよ、いつ以来かしら」
今から思えば、まだ幼かった私たちを見守ってくれていたのであろう、当時の大人たちの一人だな。こういう人たちに支えられて私たちはいっぱしのプロ活動をしていたのだ。片割れはもうとっくにいないけれど。
「それでどうしたの、昔話をしたいのならいくらでもお付き合いするけれど」
「そうしたいのも山々ですけど、今日はね、ちょっと会いたい人がいるのよ」
ローリーは、勝手知ったる扉に向かった。レコーディング用のスタジオの一つに彼女の名前を見つけたからである。
「Toko Sakamoto]と表示のある扉には小さな窓があった。一応覗いてみて入室するタイミングを図ることにした。
中の動きが止まるのを確認して重い扉を開く。数人のミュージシャンとヘッドホンをはずしたばかりの日本人女性がいる。
「トーコ」
ローリーが声を掛けるとトーコが顔を上げた。
「おひさしぶりね、見学に来たわよ」
「ローリー!」
狭いスタジオを駆け抜け、トーコはローリーに抱きついた。
「ありがとう、本当に来てくれたのね」
「もちろんよ、なにか困ってない。この人たちはちゃんと仕事してくれているかしら」
ローリーはミュージシャンたちを見回す。顔見知りとまでは言わないが、ベテランが揃っているようだ。
「ローリー、俺達が仕事で手を抜くようなタイプじゃないの知ってるだろう」
その時奥のガラス張りのブースから数人出てきた。録音エンジニアやプロデューサーたちだろう、日本人もいるようだ。
「ローリーじゃないか、なんだ復帰する気になったのか、いつでも段取りぐらいつけるよ」
昔顔なじみだったミュージシャンの一人だ。最近見ないと思ったらプロデューサーしてたのか。
「その気になったらお願いね。今日はトーコの応援に来ただけだから」
一瞬怪訝な顔をされるが、すぐに二人の背景に気がついたのだろう、納得顔になった。
「ちょうどいい。少し休憩しよう」
トーコの表情はローリーにはあまり良くは見えなかった。
「どうしたの、上手くいってないの」
トーコは力なくうなづいた。
ロンドンでのレコーディングも既に何回目だろう。
アイドルでもないんだし、いまさら新曲でトップテン入を目指そうとも思ってはいない。なのに、妙に方に力ばかり入って上手くいかない。
「曲の解釈が間違っているのかも」
「そんなに難しいの」
「そうは思わなかったんだけどね、楽譜をもらったときは」
「ちょっと見せてよ」
どうせ歌詞は日本語だから理解できない。メロディラインだけを拾ってハミングしてみる。
「悪くないわね、これの何処が問題なの」
「歌詞がね、上手く乗らないのよ」
それは、アドバイス出来ないな。誰よ作ったのは。ここにいないのなら電話してでも相談しなさいよ。
「それはしたの。昨日ね」
昨日から悩んでいたのか。困った娘ね。トーコは年上だがローリーから見ると妹ぐらいにしか見えないのだ。
「で、なんて言ってるのその先生は」
「来てくれるって」
何それ。ヒースローにお出迎えしに行かなくてもいいのか。
その時スタジオの扉が開き一団が入ってきた。ローリーのまことによく知っている面々である。
「あれ、ローリーがいる」
「ああ、ちょうど良かったよ」
「お前家にいなくていいのか」
現在ローリーの実家であるキング家に留学のために滞在中のスミレとその兄のトモ、そしてローリーの実兄であるマイケルの三人連れだった。
彼らを見てトーコの不安げだった顔がほころんだ。
これは、ひょっとして。
トーコを悩ませている曲を作ったのはトモだったのである。そりゃ迎えはいらないわね。
トモはトーコの訴えをしばらく聞いたあと、録音ブースに入っていった。休憩から帰っていたプロデューサーたちと何か話し合っている。
しばらくして出てきたトモはこう言った。
「少し時間をもらったからね。先輩をリラックスさせるためにちょっと遊ぼうか。ミュージシャンの皆さんもスタンバイをやめて結構です」
そう言い放つと、勝手にマイクを触りスミレをピアノの前に座らせ、自らはスタジオにあったアコースティックギターを手にとった。
一本のマイクにマイケルとローリーを立たせもう一本にはトーコとギターを持ったトモが立つ。ピアノの上にもマイクがぶら下がっている。
「さて、みんなの良く知っているのでもやろうか、スミレこれ出来るよね」そう言ってトモが歌いだしたのは「ミスターポストマン」だった。古い曲だがビートルズやカーペンターズもカバーしてそれぞれスマッシュヒットさせているから年代が違っても良く知っている。
実はローリーにとっても思い入れのある曲なのだ。相棒だったダイアナが歌手デビューする前から良く口ずさんでいたから。リズミカルでのりがいいからよく一緒に歌ったし、プロになってからも本番前の口馴しに使ったりしたものだ。
トモが歌いだせば特にパートを決めていなくてもハモることが出来た。ちょっと調整するだけでフルコーラス歌い切ることが出来る。
確かにこんなふうにやると楽しい。トーコの気分はどうだろうか。
トモがトーコに耳打ちをしている。トーコが驚いた顔になった。
「ちょっとそこの郵便屋の兄ちゃん、わたしあての手紙来てへんの」トモがたぶん日本語で歌いだした。ピアノの前のスミレが手を叩いて笑いだした。
「何それお兄ちゃん、大阪弁はやめてよ、おかしすぎるわ」意味はわからないがトーコとスミレは大笑いしている。ローリーは横目でブースの中を見た。やはり日本人だけ笑っている。
そしてトーコもついに日本語で歌いだした。トモとスミレは結構真剣に伴奏を着けている。コーラスをつけるところではローリーとマイケルに合図を出して合わせさせた。
「ウェイトミニッツ・ウェイトミニッツ」「ちょと待って・ちょと待って」
よくわからないが調子はいいな。ローリーも楽しくなった。仏頂面のマイケルもすこしニヤケている。
待機中のミュージシャンたちも面白そうに見ている。
少なくともムードは良くなったな、とローリーは思った。




