診察 10 ラジェシ君の夢
「お邪魔したね、良い返事を待ってるよ」
そう言って訪問客は帰っていった。車が去っていくのを見送ったラジェシ・バルは大きくため息をついてしまった。恩のある人に断りを伝えるのは憂鬱なものだ。特に今日の客はかつて幼かった彼の才能を見出し、貧困からすくい上げてくれた人だっただけに。
「なんだもうお帰りだったのか、もっとゆっくりしてもらえれば良かったのに」庭で運動をしていた現在の雇い主は、年の割に無邪気な笑顔で言った。単に同郷の先輩が訪ねてきたと思ってのことだろうが、本当は自分を引き抜きに来たのだと知ったらどんな反応を示すだろう。
引き止めてくれるのだろうか。それとも。
去っていった車の方向をなんとなく見ていたためスキが出来たのだろう。どこからともなく犬が左腕を狙って飛びかかってきた。間一髪小さく前転してかわし、次の攻撃に備えて構えをとった。
犬は一声吠えると尻尾を振りながら近づいてくる。よしよし今のをよくかわしたな、褒めてやるぞ。といったところなのだろう。結局は頭や体を撫でさせられるのだが。
仕事中に事前のアポイントがあるとは言え、何度も訪問を受けるのは業腹だ。いつまでも内緒話で終わらせておくわけにも行かないし、ここは現状を伝えておくのが最善だろう。そう判断して彼は現在の雇用主に言った「ちょっとお時間をいただけますでしょうか」と。
「すごいね、ラジェシ君は引く手あまたなんだ」それほどでもないが今日の訪問者で三件目である。
「いつの間にそんなにたくさん傭兵会社が出来ていたんだ」もっともな質問である。
すでに時代は転換しているのだそうだ。私が雇用主に出会った時のような正規軍同士の戦争の時代は過ぎ去って、今は不正規戦の時代なのだ、そうだ。
「あー、それは、例えば毛沢東とかベトナムの人民解放軍とかの話なの」
「いえ、これからの民族紛争や宗教間の争いのことだそうです」
「じゃあ北アイルランドなんかもそうなるのかな」確かに万余の英国軍は地元の支持があるとは言え実質数百規模のIRAを抑えきれない。
「対等の立場になって交渉をしなきゃね」
「なんだ、物騒な話題だな。男ばかりでアフタヌーンティーなんかしてるとろくなことがないな」
現れたのはデービッドだ。言われてみれば今日はエマがいない、代わりにタローがいるが。
「本来なら英国なんかあちこちでテロの対象になっていてもおかしくないよね」
「ここだけの話にしてくれよ、たのむから」
そこからの義兄弟の会話は確かに世間に出せるものではなかった。うちのご主人も結構言うときは言うんだな、というのが二人の会話を聞いていての感想だ。兄の方は政府の中枢にいる官僚だから当然としても、弟の方はあまり情報に強い環境にいるわけではない。
デービッドもそう思ったらしい。
「妙に詳しいな、大学で誰かにレクチャーしてもらってるのか」
「まさか、そんなわけ無いだろ。新聞をこまめに読んでいればこれくらいの知ったかぶりは出来るよ」
そうなのかな、うちのご主人は妙に先を見透すようなところがある。
「そりゃあラジェシ君がモテモテなのも当然だな」結論はつまらない話で終わった。
「どうなの、報酬はかなりのものが提示されてるんだろ」その夜の食事の後に、ラジェシは主人に声を掛けられた。
グルカ兵となり、色々あってこうやって外国で働いているのは、ご主人のそばにいたいからというだけではない。それはとっくに伝えてある。
ラジェシは珍しく口ごもった。日頃から雄弁ではないが、無口でもない。必要な会話はきっちりと伝わるようにしている。軍人だから当然だ。しかし金のことを問われてつい返答を迷ってしまった。
「そんなに大金を積まれているのか。それはそれでなんか嫌だな」
「いえそんなにではありません」
「でも学校を作れるくらいは出そうと言うんだろ」
ラジェシが故郷に何を作りたいのか、かつての仲間達なら皆んな知っている。血で購った財で学校を作るのは冒涜だ、などというナイーブな気持ちもない。だから渡りに船ではあるのだ。
どうも自分の考えを上手くまとめられないのだ。この件では。
「わかった。来週にでも時間を作ろうか」
そしてカトマンズの空港で二人は迎えの車を待っていた。
「ドクター・ハタノにサージェント・パルですね」お待たせしましたと言ってやってきたのは小型のジープに乗った案内人だった。最後の数キロは歩きになりますと言われたが。昔は十キロ以上歩いたんだからたいしたものだ。
実家に着くと迎えてくれたのは家族だけではなかった。同い年の旧友もいるし今の村長もいる。なかなか結構な歓迎ムードだった。
開けて翌朝ドクターはラジェシ君を残して帰っていった。
「一週間ぐらいゆっくりして相談してね。あんまり遅くなるとタローが寂しがるよ」
紙切れ一枚が残されていて、予算やら政府の役人の連絡先やらが書かれていた。
三日後ラジェシはロッキンガム家に帰り着いた。さすがにハタノが驚いて彼を迎えたので内心ラジェシは喜んだ。
「即断即決は兵の習いです」と言って密かに鼻の穴を膨らました。
「ちゃんと計画は出来たんだろうね」
「もちろんです、抜かりはありません」本当は村長と幼馴染に丸投げしてきたのは内緒である。
学校の名前はタローズ・スクールとなって半年後には開校できた。屋根と壁さえあれば教育は出来ると村長が主張したためである。教師は政府が協力して一名確保した。村人の力で徐々に規模は拡大することになる。将来的には他の村々にもタローズ・スクールを作ろう、というのがラジェシの夢となった。




