診察 1 公爵家ご令嬢
「ジムさんちょっとこの数値おかしくないか」
「先生よく判ってるじゃないか、こりゃあもう寿命だな、長くないわ」
「やれやれまた事務長がぼやきそうだな、今年の予算はもうとっくにオーバーしてるんですってな」
「わはは、先生声色も上手だね、テレビのショーにだって出られそうだな」
作業服姿で椅子に座っている初老の男は、この病院の設備管理員のジム親父だ。白衣姿で突っ立ったままバインダーに挟んだ点検用紙に記入した数字を報告しているのはドクターのハタノ、三十代独身二人の子持ちである。
先程バックヤードでつらそうにしてしゃがんでいるところをハタノに発見されたジムはそのまま背負われて管理事務所に運び込まれた。そのままハタノに問診をされ、重篤な問題はないから安静にしているように言い渡されて「まだ点検が残っている」と動こうとするのを「じゃあ残りは僕が行ってきましょう」とやんわりと押し止められた。なにかあったら救急に連絡してね、と言い残して小半時。本当にドクター・ハタノは残りの点検を済ませて帰ってきた。ついでに異常値の報告も。
「しかしドクターは空調機も診断出来るのかね」
「まあわかるところもあるよ、手術は出来ないけどね」
「ちげえねえ、そんなことされたら俺もおまんまの食い上げだ」
「でもジムさんの手術は出来るよ。真剣に検討してね、正直その空調機より良くないと思うよ」
「…いやあ俺は」「ジムさん、今はねそれくらいなら入院も短くてすむよ。なんなら今日の午後でもどうだい」あまりの気楽な物言いに、つい「なら後で」と言い掛けてしまうが、そういうわけにもいかないだろう。だがこのドクターなら本当にやってしまうかもしれんな、と苦笑してしまう。
「あれ、先生なんか鳴ってるよ」白衣のポケットから虫の鳴くような音が聞こえる。
「ああ、本当だ。わあ、まずいな怒られちゃうよ」ポケットベルの表示を見て事務所の内線電話を使ってドクターは返事をしようとした。相手はワンコールで出た上にジムにまで聞こえる大声で「先生どこにいらっしゃるんですか、お約束のお客様がお待ちです、すぐに戻ってください」と一方的に喋って電話を切った。その間ドクターは何も話していないがあれで会話が成立しているのだろうか。
「じゃあジムさん約束だよ、必ず受診してね」そう言ってドクターは部屋を出ていった。急がなくちゃまずいんじゃないのか、とジムが心配するくらいにゆっくりと、落ち着いた足取りのままで。
「まあ、大物だよな。看護師長に怒られたぐらいじゃびくともしねえな」気乗りはしないがしかたがないな「フォークランドの英雄に言われちゃあな」次の休みに外来に受診に行く決心をするジムであった。
「すいませんお待たせしました」ハタノが入っていったのは院長室である。
「あら、いいのよハタノさん。無理なご相談を持ちかけたのは私のほうですから」
鷹揚に微笑むのはこの病院の理事の一人である公爵家の現当主夫人である。実質的な経営者夫人であるから豪放磊落で知られる院長も常になくおとなしい。ハタノとしても権力者に嫌われるのを趣味にしたいわけではないから対応は丁寧である。失礼にならぬ程度に。
公爵夫人の相談というのは公爵家への往診であった。もちろん公爵家ともなればお抱えの主治医もいるし、家族の健康についてはこの病院が全面的にバックアップしている。公爵家の一員である限り最先端の医療サービスの庇護下にあるのは間違いがないところだ。
しかしそれでもなお、公爵夫人は我が公爵家令嬢に対し最大限のサービスを病院に対して要求してきた。それがドクター・ハタノによる往診である。
「もちろんお引き受けいたします」ハタノは即答した。この状況下で返事を保留する意味などないし、否定的な返答などするだけ無駄である。ならばさっさと厄介事は片付けるに限るのだ。
「それでは参りましょうか」むしろ率先して出発しようと夫人を促した。
「少しでも早く患者さんに対応しなくてはなりません」
「そうですわね、それでは院長。また理事会で」と慌てて立ち上がりドアのところで待ち受けるハタノに片手を委ねる夫人であった。
二人が出ていくとそれまで黙っていた看護師長が「全くドクター・ハタノのスケジュールはタイトに決まっておりますのに」吐き捨てるように言った。
「まあそう言うなよ、彼女の気持ちが理解できなくもないからね」
「私はあのお嬢様につきましては赤ん坊の頃から存じ上げておりますので」
「心臓に疾患などあるはずはないってね」
「心臓は心臓でも赤いハートのほうでしょうに」
「年頃のお嬢様なんだから仕方がないさ、赤の女王は夫人のほうだろう」
「全く、ドクターは大丈夫でしょうか」
「なに、トモのことかい。あいつの胸の中にはダイアナ嬢しか入ってないさ。やっと最近子供たちが割り込めたところだと言うのに。診察に使った部屋から出た途端にあちらのお嬢様はカルテの中の存在にしか過ぎなくなるだろうな、可哀想に」
「そうではなくて、いらぬ恨みを買わなければよいのですが」
「あいつは昔から攻撃をかわすのが大得意だったからな」
「それはラグビーのお話でしょう」
「似たようなものさ」
ハタノは公爵家の車に夫人とともに乗っていた。自分の車で行きたかったのだが夫人に手配はおまかせをと言われては断るすべもない。常に用意しているドクターバッグだけを持って同乗することにした。屋敷に着くまでの会話については予想の範囲内だったのでパーティ会場にいるつもりで、よく聞いて受け流した。ただ一つ、公爵家にはジャーマンシェパードがいると聞いて思わず聞き返した「その年令は、雌雄はどちらでしょうか」おもわね反応に夫人は言葉に詰まった、犬には慣れないのでよく知らないのだ「娘が詳しいですわ、診察の合間にでもお聞きくださいまし」この事は忘れずに娘に伝えなくてはね。