お暇
お菓子だって、今まで幾らも食べてきた。自分でこしらえることもあるし、紫様から外のお菓子を頂くこともある。経験は十分にあったつもりだった。しかし、それを遙かに凌駕したお菓子が、あった。
それは何も変哲のない、おはぎだった。中に何が入っている訳でもなく、半殺しのお餅に、あんこを纏わせているだけの、もの。おはぎそのものは、飽きる程食べたことがある。和菓子はどうしてもあんこに偏ることから、どうにも飽きてしまって、敬遠すらしたことがある。そのはずだった。
手にとって口に運ぶまでは、ただ小振りなおはぎとしか見えなかった。だが、楊枝で切り分けて口元に運んだ時、小豆の香りが鼻を突いた。
久しく、小豆の香りなんて感じていなかった気がする。こんなに香りの強いあんこなんて、食べたことがあるだろうか。それを改めて感じたくて、一度口元から離して、まじまじと見つめた。
あんこは粒あんだが、滑らかな光沢が艶めかしく、所々に見える豆そのものが白、黒と色味を加えて、美しい。それに包まれたお餅も、十分に柔らかいにも関わらず、楊枝からだれることもない。真っ白なお餅とあんこの色の調和もまた、美しい。
もう一度香りを楽しんで、おもむろに口へと運ぶ。予想通り、柔らかいお餅は舌に張り付くようで、それでいて噛めば十分に弾力を感じられる。しっかりとしたあんこの甘みを感じ、時に感じる米粒が、楽しい食感を与えてくれる。初めは鼻に抜けた小豆の香りが、一度、二度と咀嚼をする内に、餅米の香りと合わさる。甘み、わずかに感じる塩味。あんこだけを食べれば強すぎる味が、お餅と合わさることによって、段々と調和して、より深い味わいとなる。嚥下してからも鼻へと抜ける香りは、食べる前のそれとは、どこか違った香りだった。
もう一口、もう、一口。もともと小振りだったおはぎは、すぐに小さくなって、なくなってしまった。
……幽々子様からお暇を言い渡されたのは、一週間も前の話だ。お暇とは簡単に言えばクビのことだが、私のクビには期限があった。そしてその期限は今日であり、明日からはきっと、元通りかはともかく、白玉楼での生活が始まる。
クビにされた理由は分からない。幽々子様はいつも脈絡なく話を進めるから、理由なんて分かる方が珍しい。だが、そのクビについて課題が出されていることから考えると、何かしらを私に伝えたいことは間違いないだろう。
課題は、時を斬る為に何かしらの努力をする、とのことだった。そしてそれを、幽々子様に報告すること。期限は明日だが、未だにそれは分からない。その切っ掛けすら、つかめてはいない。
白玉楼を出ても、行く当てなどない。誰かに助言を求めるにしても、時を切ることなんて、誰に聞けば良いのだろうか。そもそも、時は斬れるものなのだろうか。何をすれば良いのかすら分からず、悶々と考えた。
今日に至るまでは、剣術を学び、見え隠れする祖父の教えを推し量り、それを否定し否定される毎日。曖昧ながら、そうしている内に技巧も上がるのだろうと気楽に考えたこともあった。その考えではだめだと焦り、四方八方を斬ったこともある。
時を斬るには、二百年はかかる。しかし、剣を手に取ってから高々二百年で時が斬れるなら、苦労はしない。その言葉……その裏にある真理を読み解かない限り、その二百年は永遠に訪れない。
私の中には、焦燥と諦観が入り交じっている。それは暇を貰う前も、今も、同じ。そしてこの焦りや諦めは、時を斬れなくする大きな原因であろうとも、思っている。だからといって、日々の鍛錬と高い志だけでは、何も変わらない。時という本質を捕らえた時に、斬る切っ掛けが得られる気がしていた。
おはぎが乗っていた笹の葉を、ぼんやりと見つめていた。日がな一日、こうして笹の葉を見つめる日が、もう三日も続いている。
どうにかしなければならない。でも、どうすることもできない。いがいがとした感情が、心地よかったおはぎの後味を、分からなくさせた。
「今日のおはぎは、いかがでしたか?」
「あ、あぁ。美味しかったです。とっても」
「それは良かったです。今日は少し、美味しくなるように頑張ってみたんですよ」
ここの店主とも、相応に仲良くなった。一日中軒先に座っていながら、おはぎを二個しか食べない半人半霊を、涼しげな笑顔で迎えてくれる店主。どこか頼りなさそうで、この人がこんな素晴らしいおはぎを作ったことが、今でも少し信じきれない。
「こんなに美味しいのに、まだ何か美味しくなる工夫があるんですか?」
「いえ、材料や手間は変わりませんよ」
「それでは、味は変わらないんじゃ」
「いえ、変わります」
言い切った店主は、私から視線を外して、空を見上げる。今日は秋晴れで、日陰にいればやや寒い。秋風が、店主の夏着を揺らした。
「味を決めるのは、別に材料とか技術だけじゃないんですよ。かといって、愛情という訳でもありません。まぁ愛情も必要ではありますが」
「……わかりません。まるで禅問答みたいで」
「確かに、これは禅問答だと思います。誰しも答えを持っているし、その答えに気付かない人もいれば、その答えが常識である人もいる」
「いよいよ、さっぱりです。それは俗にいう気合いや、思い入れ程度の答えにしか行き着かないと思いますが」
にこにこと微笑む店主。三日ほど話して分かったが、この人はこの答えを言う気はないだろう。質問だけ投げかけて、答えは言わない。それらしい返答はあるが、それはどこまでも曖昧模糊で、何も実体がない。まるで幽霊のような、そんな答え。
「難しいことは私には分かりません。……私は、今日ここを離れ、冥界へと戻ります。その手土産にこのおはぎを分けて頂きたいのですが、お頼みできるでしょうか」
「えぇ、構いませんよ。重箱にお包みしますね」
店主は軽く会釈をして、店内へと戻っていった。
……材料は同じである。つまり、味を構成する物は、何も変わらない。
手間も変わらない。作り方が変わらない以上、材料が同じであれば、同じ物ができる。
愛情も必要だが、それが美味しくなる鍵ではない。作る気持ちすら同じなら、果たして昨日のぼた餅と、何が違うのだろうか。違うと認識するからこそ、それは違うものとなり得るのだろうか。
……その理論なら、何となくわかる。昨日よりも今日の方が、作ってきたおはぎの数は上になる。昨日よりも少なくなることはない。だから、今日の経験値は昨日より高く、今日のおはぎは無条件に味が良い。
その答えであれば、どこまでも放漫で、感心はしない。しかし、この程度しか、答えを導き出せない。そもそも面倒臭い物言いの店主とは思っているが、それにしても面倒臭い問いである。……幽々子様の課題すら、全く解けてはいないというのに。
「おはぎ、お待たせしました。このお重はまた、この辺りに用がある時にお返し頂ければと思います」
「ありがとうございます。我が主も、喜ぶでしょう」
「それと、先程の答えですけれど」
店主はお重を包んだ風呂敷を棚に置き、後ろに隠すように持っていたおはぎを差し出す。
「たぶん、このおはぎが一番美味しいと思います。是非」
自信満々な店主とは相反するように、あまりにも見慣れたおはぎが皿にあった。小振りで、整った形。何か違いを見つけてみようと思えど、何も見つからない。
「……頂きます」
皿を受け取り、楊枝で切ってみるも、何も変わらない。一口頬張って、咀嚼し、嚥下する。美味しい。やはり美味しいが、何が違うのかが分からない。
もう一口、一口と食べる内に、おはぎはなくなってしまった。重厚な後味が残る。鼻に抜ける香りが心地よい。
……だが確かに、何かが違う気がする。今まで食べてきたものと、何かが。味とか香りとか、そんな単純なものではない。もっと隠れたところにある、見落としてしまいそうなもの。
それを見つけようと、必死に昨日を思い出す。一昨日を思い出す。おはぎを食べた。そして、おはぎを食べた。美味しかったが、それだけだ。それ以上の感想が出てこない。
このおはぎを初めて食べた時に、それはそれは感動したものだ。その時に幽々子様にも食べさせたいと思ったからこそ、こうしてお土産を頼んだ。
次の日、おはぎを食べた。やはり美味しいと思った。だが、何が美味しいか、何が美味しいと感じるのかは考えなかった。初めて食べた時の曖昧な衝撃を、改めてなぞり返しただけだった。
その次の日。おはぎを食べた。美味しいと思った。その美味しさに、安心するようになった。このぼた餅はこんな味。やっぱり美味しい。衝撃をなぞることもなく、探ることもしていない。
そして今日。おはぎを食べた。当たり前の味になったおはぎはやっぱり美味しかった。しかし、私はおはぎを食べたことを、さして深くは考えもしなかった。
改めて食べた今も、何が美味しいのかは分からない。美味しいのかすら、分からなくなってきた。しかし、昨日のおはぎよりも、遙かに、繊細なおはぎだと感じた。何が繊細なのかはわからないにしても、とても丁寧に作られた物だと分かる。……いや、私が分かろうとしている。このおはぎの味を理解しようと、味わっている。
このおはぎに真剣に向き合ったことは、初めてだった。初めて食べた時に衝撃を受けたのは、経験がなかった上に、疑いながら食べたからだ。予想以上に美味しかったから、その衝撃が記憶を濁した。そして、その衝撃を、そのまま美味しさだと錯覚したのだ。
「美味しかったでしょう?」
「……はい。今までで食べた中で、一番」
「私の家系は代々、この場所で和菓子屋を営んでいます。その中で、その時々の店主が、試行錯誤を重ね、今の味に至ります。それぞれの技巧はそれぞれの代になくなりますが、それを理解した次代が、また試行錯誤した上で次代に渡すのです。私も試行錯誤しているし、それを渡したいと思っている」
今までに見たことのない、店主の真剣な表情だった。ただただ、聞くことしかできない。
「私自身、自分の未熟さを感じながらも、自分のお菓子は美味しいと思っています。だからこそ、こうして自信をもって、食べてみてと言えます。しかし貴女は、黙々と食べた上で美味しいとは言いますが、何も考えていないように思います。一期一会ではそれも仕方ないですが、三日も同じ物を食べ、終日座っているのに、心はここにない」
「それは、申し訳ないです。考え事をしていたとはいえ」
「…………いえ。貴女はそれで良いのです。逆に、私の未熟さが原因です。三日もあった。六つも食べた。それなのに何一つ、貴女に興味を持たせることができなかった。それまでは自信があったお菓子に、疑問を抱くようになった。だから貴女が帰るといっていた今日、貴女に美味しいと言って貰えるように、努力しました。しかし、向き合っては貰えなかった。……ちょっと悔しかったから、こうして負け惜しみを言っています」
苦々しくも恥ずかしそうに、店主は頭をかいた。私と言えば、この人がここまで真剣にお菓子を作り、努力をしたことを知ろうともしなかった。そう思うと、昨日までは頼りなかった店主が、どこかたくましくも見えた。
「この度は私の完敗です。勝手に試すようなことをして申し訳ありませんでした。……ですが、そのお重を返して頂く時にまた、食べてみて下さい。その時にはきっと、考え事すらも忘れさせるくらい、美味しいおはぎを作りますから」
時を斬る、ということを、私は勘違いしていたのかもしれない。そう考えることができた。
確かに、技術として、時を斬る剣術は二百年で習得できるのかもしれない。しかし、これでは時は斬れないだろう。
私は時というものを、何か一つの大きな事象のように捕らえていた。例えば台風を、刀一つで晴天にさせるような。その具体的な台風を、もっと曖昧にした時を斬るのだと。そう思っていたのだろう。
だが、憶測でしかないが、時はそんな曖昧なものではない。もしかしたら、私が今見ているこの世界よりももっと、確固たるものかもしれない。
例えば、このお土産のおはぎを、幽々子様は楊枝で切るだろう。四等分にでもして、食べてしまえばおはぎはなくなる。しかし、そのおはぎがあった時間はなくならない。楊枝でも刀でも、それを斬ることは不可能だ。美味しそうに頬張る幽々子様、それを期待しながら持ち帰る私、先代を越えようと、作り込んだ店主。遡れば、もっとたくさんの時がこのおはぎには詰まっている。それこそが、時の本質なのかもしれない。
その時というものをどう斬るのか、何を持って斬るとするのか。これを理解した時に、二百年の技術と合わされば、時は斬れるのかもしれない。
……我が祖父も、この真理を悟ったからこそ、白玉楼を出て行ったのだろうか。私もそれを読み解けば、また祖父に会えるのだろうか。褒めてもらえるだろうか。
……今はまだ、二百年の剣術すら、身についてはいない。だが裏を返せば、二百年の内に、時という真理を知ればいい。その切っ掛けはきっと、今日つかめた気がする。そう思いたい。
あれだけ思い悩んでいたことが嘘のように、足取りが軽かった。早く帰って、この美味しいおはぎを幽々子様に食べてもらいたい。嬉しそうに頬張る表情を、見たい。
――私の帰る場所をまた一つ、見つけられた気がした。
お読みいただき、ありがとうございました。