天使などいらない
自分で身体を動かすのがおっくう、と言うよりも辛い。部屋の中の歩き移動すら息が上がる。河口は家に寄りつかなくなった。本部から別の仕事に就くようにも言われていると無表情に言った。
精神科の通院で相談すると、その重く怠い感じは内科的なことじゃないかと言われた。内臓がないから。
「普通、いっぺんに二つも三つも臓器を取ればショック死してしまいます。それをゆいこさんは、はじめ何事もなかったかのように過ごしましたから。奇跡です、ある意味。」
医師の顔を見たくなかった。この医師は良い医者だ。わたしを心配してくれているが、けっして余計な立ち入りはしない。
でも可哀相がられるのは我慢ならない。同情も哀れみも不要だ。
タクシーで行き帰りする。子分が出てきて身体を支えてくれる。
「ありがとう。河口は?」
子分は頭を振った。昼食を作って待っていたらしく、昼食を勧めてくる。
一口ずつゆっくり食べる。本当はもう何も食べたくなかった。だけれど精神科の薬の副作用で食欲がコントロールできないおかげで食べられた。
部屋のベッドに離婚届が置いてあった。それと、障害者年金が振り込まれる銀行の通帳と印鑑。
わたしは黙って離婚届に署名して捺印する。
それを子分に渡した。
「姐さん。」
「わたし入院するわ。もう身体がいけないの。今までありがとうね。」
子分は荷物づくりを手伝ってくれた。
携帯電話で河口に着信を入れたがあちらは応じる気が無いようだった。
「くそったれ!」
市民病院に押し掛けると、いたたまれないのを医師も看護師も顔から隠さなかった。
「ホスピス。空くまで、こちらにはいていただけますよ。」
「わたしそんなに悪いんですか。」
子分が泣いた。
妹が入院中に来てくれた。いったい何があったのと質問責めだった。わたしは全部には答えなかった。それと、夫がいたことも。
「お父さんとお母さん、借金残してたって、わたし知らなかったわよ。」
「うそね。あなたは自分が負債するのをおそれてウチに寄りつかなかった。それよりも市役所に行って、生活保護の再申請を頼むわ。委任状書くから。でないとどの施設でもお金が払えない。」
事務的なことを妹はしてくれるが、それが済むとやはり寄りつかないのであった。むかし、ゆいこが統合失調症になったときも、妹はそんなゆいこから逃げて面倒を避けた。
「厄介者ね。わたしは今も昔も。」
妹をアテにしたことなど無い。こんなに露骨に厄介がられて、面倒なんか見られてたまるかとゆいこも気持ちを堅くした。
ホスピスへは只で入れた。公共の施設だったからかも知れない。生活保護者のゆいこは、いよいよ死ぬのだと実感した。
ボランティアが毎日新しい花を届けてくれる。
それぞれが思いのままに過ごす。ゆいこは車椅子を押してもらいながら中の風景を見た。一人でも何の不安もない。母がいないと何にも出来ないというくらい、母に依存して生きていた。それが、一人でホスピスで死ぬのだ。
ベッドで横になって、夜の外を見る。
さみしい。点滴を抜いて、自分の部屋に帰りたくなる。河口に捨てられた。面倒な死にかけとなったから。
「河口。」
部屋に忍び込んできたのだ。仕立ての黒いスーツを着て。
河口の手には拳銃。
「わたしを殺す気。そこまでわたしを嫌いになったの。かなしいわ。」
「辛くねえかお前。合法的に麻薬使ってんじゃねえか。そうとう酷いんだろう。どうだ、一瞬で逝かせてやろうか。」
ゆいこは声も低く笑って見せた。ときどきせき込んだ。
「お情けなんていらないよ。帰って。」
「お前コレ、オレの愛情だぜ。殺しなんてしたら今の日本じゃ逃げきれない。オレは服役だよ。それでも殺してやろうかってんだよ。」
「だったら復縁してよ。生きてたらでいいけど。」「そりゃダメだ。また別の土地の女と籍いれっから。」
「死ね。」
河口は怒らなかった。
ゆいこにとって河口は悪魔だった。魅力的な悪魔だった。
楽にしてやろう。殺してやろう。これじゃ天使だ。服役しても良いから殺してあげる?
お断りだ。
悪魔なら、残り少ないわたしの命を強奪しに来たと言うべきだ。ちんたらいつまでも生きているんじゃねえ。とっとと死ねと引導渡して欲しい。それがわたしの悪魔、河口。
河口が帰って行く。わたしの夫だった人が、部屋から出て行ってしまう。
行かないで。
涙が目からこぼれた。何もなかった人生で、両親を奪われた後に、わたしに違う人生をくれた人。短かったけど、あなたは悪い人だったけれど、わたしはあなたの妻でいれた。一生処女かと思っていたのに。
でも天使ならいらない。
天使なんていらない。わたしの河口は悪魔なんだ。
翌日は持ち直して、押し花をしおりにしたり工作を楽しんだ。
点滴の種類が変わった。便が出なくなって看護師にかきだしてもらう。
ベッドから動けなくなった。
両親がわたしをじっと見ていた。泣いていたけれど、嬉しそうに笑ってもいた。