記憶喪失
「誰……ですかね」
確かにぼくは自己紹介をしようとした。けれども、何も思い出せなかった。そう言えば、ぼくは何族なのだろうか、そして、なんと言う名前で、今までどう生きてきていたのか。全く思い出せない。
「記憶障害か……ふむ、仕方が無い。クドピリカ、私は車椅子を持ってくるよ、その間話でもしていたまえ。彼の記憶の手助けになるやもしれん」
思い出せないことや、自己紹介できないことに、バビロンは全く疑問を持たなかった。もしかすると、この村では記憶を失うことはそんなに珍しいことではないのだろうか。
そんな事を思っている間にバビロンは器材を全て片付けて、部屋を早々に立ち去った。車椅子を持ってくると言ったから、恐らくぼくをどこかに連れて行くのだろう。
バビロンが去った方向を見ながらそんな事を考えていたら、軽く肩を叩かれた。叩かれた方を見ると、クドピリカと目が合った。どうやら彼女が肩を叩いたらしい。
「あのー、えーっと。クドピリカです。一応龍族です、よろしくお願いします」
目が合うとすぐにそう言い、ぼくの上半身を支えたまま、軽く頭を下げた。ぼくもそれにつられて頭を下げて、小さな声でよろしくお願いしますと言った。
「何も、思い出せないんですか?」
顔を上げると、すぐにそう尋ねられた。少し訝しそうに眉を曲げているその表情も可愛かった。
「何も、じゃないんだよ。庭にあるのが花だとか、それを取り囲むように飛んでいるのが蝶、奥で流れているのが水だとか、そういう事はわかるんだ。けれども、ぼくが誰で、何故ここにいるのかがわからない」
別に隠す必要もないし、可愛い子とは話がしたいので、素直に現状を述べた。すると、彼女も、それに応えるようにすぐに口を開いた。
「そうですね、ショックによる一時的な記憶障害ですかね。もしかしたら、あなたの置かれていた状況を整理すると何か思い出すかもしれませんね」
そう言うと、彼女は器用にぼくの上半身を支えた状態で、逆の手でお尻のポケットから、メモ帳のようなものを取り出した。取り出す時にちょっと前かがみになって、その時胸の谷間とか見えないかなーと覗いたりはしていない。ぼくは決して。
「えーっと、ちょっと待ってくださいね。あなたがうなされていた時に言っていた言葉をいくつかメモしてあるので」
そう言いながら、彼女は片手でメモを開きめくる。指先の使い方が器用というレベルではない感じで動いている。3本の指でメモを固定しつつ、2本の指でページをめくっていく。バビロンといい、クドピリカといい、ここの村は器用な人の集まりなのだろうか。
「えーっと……ありました。ちょっと字が汚いですけど、読めますか?」
そう言って、クドピリカはぼくの目の前にメモを持ってきた。字が汚いと言っていたが、メモは綺麗にまとまっているように見えた。文字の大きさも統一されているし、しっかりと横にまっすぐ文字が書かれている。しかし、問題があった。それは
「ごめん、文字読めないんだ」
ぼく自身のことだった。薄々勘付いていたが、バビロンのカルテも普通の人だったら読めたのだろう。ぼく自身がもともと文字を知らないのか、他の記憶と一緒に忘れ去ってしまったのかは定かではないが、とにかく文字は読めない。
「あっ、すみません、そうでしたね。じゃあ、私が読み上げますね」
そう言うとクドピリカは、メモを下げ、目を落とした。しかし、ぼくは彼女がメモを読み上げる前に、疑問に感じたことがあった。なぜ、彼女はぼくが文字を読めないことに対して、まるで知っているかのように、そうでしたね。と答えることができたのか。
「何か記憶に結びつきそうなものは……あ、ありましたね。『リヒャルトに、落ちこぼれのことを』ごにょごにょ」
最後の方はきっとクドピリカも聞き取れなかったのだろう。明らかに声が小さくなって、聞こえないように言っていた。
そんなわけのわからないことを考えるより、ぼくは聞き覚えのある名前に頭を傾げた。
「リヒャルト……聞いたことのある名前だね。リヒャルトと、なにか、もうひとり居た気がするね」
ぼくはうわ言のようにそう呟いた。すると、それを聞いていたのかクドピリカは言葉を続けた。
「君はぼくによく似てる」
さっきの言葉からすると、嫌に焦点の定まらない言葉だ。できるだけ関係ありそうなものを選んでいると言っていたけれども、案外適当なのか?
そう考えていたら、部屋の扉が勢い良く開かれた。バビロンが戻ってきたのだ。宣言通り、手には畳んだ車椅子を抱えている。
「クドピリカ、自己紹介は済んだかね。彼をのせなさい」
そういいながら、バビロンはやはり器用に車椅子を開き、脇に抱えたカバンからカルテらしきものを取り出した。
相変わらず、ここの人たちは器用だなと感心していたら、さっきまでぼくの上半身を抱えてたクドピリカの手が、ぼくの右の脇の下に。話しながら可愛いと思っていた顔が、左の脇の下に入ってきた。
「じゃ、暴れないでくださいね」
そう言うと、クドピリカは、左手に持っていたメモ帳を胸の辺りに入れて、左手をぼくの膝のあたりに滑り込ませて、軽く持ち上げた。俗に言うお姫様抱っこという形だ。
そして、そのまま車椅子に座る形で降ろされた。この動作でわかったのだが、クドピリカはぼくより背が低く、ぼくより力持ちだ。それと、これは関係ないが、胸は思ったよりもあったし、いい匂いがした。
「よし、それじゃあ行こうか。外の空気に触れれば、記憶が戻る刺激になるかもしれん」
そう言って、バビロンは歩き出した。クドピリカは当然のように車椅子を押し、ぼくを運び始めた。




