彼の声
一九九八年九月
僕は彼女を殺した。
うだるような暑い日だ。汗がやっかいに絡みつく。季節の変わり目だというのに、今日は気温が三十度を越える真夏日だった。きっと、最近話題の地球温暖化のせいだろう。
とにかく、暑さに疎い僕ですら文明の利器に頼っていたのだ。隣にいた彼女が倒れるのも無理はなかった。
「大丈夫――だったら倒れてないか」
「……えぇ」
力の無い返事を聞く。皮肉を返す元気も尽きているようだ。いつもなら、三乗で罵声が返ってくるのだが、無敵の彼女も太陽とは勝負にならないらしい。
ふと、この現状を振り返ってみる。確か、散歩中に顔をあわせ、買い物に付き合うことになり、その帰り道に彼女が倒れてしまった。気分が悪いと駄々をこねる彼女をなだめるため、僕の家へ連れてきた。僕が彼女を家に入れたのはこれで三度目だ。
そんな予想だにしないことが起きてしまったが、後のこれが僕にはイレギュラーだった。そう、普段の彼女からは想像もできない姿が、そこにあった。なんせ、わざわざ僕の膝を枕にしているのだ。偶然か、はたまた何か狙いがあるのか。どちらにせよ、佐々木あたりが見たら胃炎を起こすに違いない。
「暑いんだけど」
「うるさい」
一部訂正。彼女は七割方回復しているようだ。声の大きさから推測するに、もう膝枕の必要はないだろう。それでも彼女は起きようとしない。理由は容易に予想できた。
「別に礼はいらない。人として当たり前なことをしただけなんだからさ。変に負い目を感じなくていい」
「…………」
彼女は感謝される側の人間だ。だから、お世辞のアリガトウは言い慣れている。けど、自分からの感謝となると途端に怪しくなる。ようするに、どうしたらいいのか分からなくなるのだ。それは僕自身にも言えることであるが。
「あ、ちょっと待った。聞きたいことが出来た。それでチャラにしよう」
唐突に思い出した。そういえば前々から気なっていたことがあったのだ。彼女がいつか他人事のように呟いた、アレを。
「人殺しって、どうだった?」
一九八八年四月九日
私は生きていた。
どこにでもある日曜だった。父がいて母がいて兄がいて私がいる。世間一般の、典型的な核家族だった。その日は、お昼に父の焼きそばを食べ、みんなでくつろいでいた。
テレビでは、四国で起きた殺人事件について報じていた。母が怖いわね、なんて言っている。でも、同じ日本での事なのに、こことそこでは空気が、世界が違う。そんなものだと理解していたし、諦めていた。これが私たちの常識だと。だから、ああなった。
チャイムが鳴る。玄関に向かう母。小さな悲鳴。重い音。居間から出る父。後に続く兄。叫び声。雄叫び。揺れる壁。再び重い音。砕ける何か。泣きじゃくる兄。静まり返る廊下。床のきしみ。ドアが開く。血濡れの凶器とテレビのニュース。幼い私と黒いアナタ。
意識を取り戻した時には白いベットにつつまれていた。まわりでは機械の電子音が飛びかっていて、目に入る電球の光が痛い。
私は部屋を見渡して、最初は悪いことしたのかと思った。自分はいけない子で、機械に囲まれたこの場所に閉じ込められているんだと。だから何もせず、天井を見ているしかなかった。でも、それが違うらしいことはすぐに分った。
部屋に入ってきた白衣のお姉さんと目を合わせると、今度は人に囲まれた。その光景はアニメにあった、改造人間を作る場面にそっくりだった。怖かったが、私は悪い子だから仕方ないと思った。けど、私は何日過ぎても改造されることなく、白衣のお姉さんと仲良くなり、近くの病室の子と友達になり、数ヵ月後、とある教会に行くことになった。
そんなある日に気づいてしまった。脳が働き心臓が脈打ち、五体満足で地に立っていることに。私だけが生きていて、私だけが存在していて、私だけが助かっている日常に。
それを自覚した次の瞬間、制御できない何かに犯された。救われたことに感動するべきなのか、家族を失ったことに悲愴すればいいか。無茶苦茶に泣いた。泣くしかなかった。そうすれば誰かが許してくれると思ったから。でも、私は空っぽになっただけだった。
そして、私は彼に出会う。
話をする彼女の顔は確認できなかった。
残念といえば残念であったが、話の内容の方が僕には致命的だった。失望したと言っていい。
ただの事後報告だ。世間一般にありふれた一家惨殺の結末。三人が死に、一人の少女が奇跡的に助かった。犯人は逮捕され、死刑判決が下された。刑の執行も終わっている。けど、僕が聞きたかったものではなかった。そんな週刊雑誌の見出しみたいな言葉ではなく、感情がこもった、生きていた声がほしかったのだ。
でも、彼女は写生された事実しか喋らない。それは、寂しいことだった。
暑かった体はすっかり冷めている。彼女はいまだ僕の膝に頭を預けたままで、動く気配はない。てっきり軽蔑されると思い込んでいた僕は、沈んだ気分を持ち上げようともせず、沈黙を保っていた。しかしその沈黙も、彼女が一分もしない間に崩してしまった。
「あなたは人を殺してみたいのね」
突然の発言に、笑いそうになる。それくらい彼女の言葉は適当で鋭かった。疑問ではなく確認。彼女のなかでそれは、決定事項であった。
「ねぇ、理由を聞かせて」
どうしようか悩む。別に話す必要も義務もない。沈黙を貫けば終わる。そこまで考えて諦めた。なぜなら、僕が彼女に勝ったことがないのを思い出したからだ。
「……興味があるからだよ」
大それた理由はない。僕のこれは、『なぜリンゴは木から落ちるのか』や、『なぜ勉強しなければいけないのか』などと同質の話なのだ。ただの疑問。人を殺したらどうなるのか。その答えが知りたいだけなのだ。その気持ちをそのままに伝えたが、彼女は一言も発しない。僕はもう言うことがない。この沈黙は、すこし堪えた。
だいぶ日も傾いてきている。あれから二十分は過ぎただろう。いい加減この体勢も疲れたが、お姫様は動こうとしない。文句の一つも言いたいところだが、結果が予知できたのでやめることにした。
「なら私を殺して」
刹那に頭が揺さぶられ、血が加速する。冷静に自分の耳を疑い、ありえないと即座に否定した。いや、実際は彼女の台詞だと肯定したくなかっただけだ。でも、僕を見上げる彼女の目が語っていた。今の言葉は聞き間違いでも、おふざけでもないと。
しばらくして僕は頷いてみせた。頷くしかなかった。それは彼女の目が、あまりにもキレイだったからだ。
あれから七年の月日が過ぎた。僕は高校・大学を無事に卒業し、今は地元の企業に入社し、社会人として生活していた。社内での実績はまだまだで、上司に頭を下げる日々が続いているが、それでも人並みには生きているし、そもそも僕に生きる権利があるのかも疑わしい。だからこれ以上は望まない。それに、望んでしまえばきっと罰が当たる。
そんな七月半ばの今日は、今年に入って一番の暑さだった。あの日を思い出させてくれる、そんな日であった。僕は麦茶を片手に布団の上に蹲る。あの時の殺人の答えは出せていなかった。でも、今日なら答えを得れる。そんな謎めいた確信があった。
何も難しいことはない。手に持つナイフを目の前の彼女に刺すだけの単純な作業。迷ったのは一瞬。次に瞬きをした時には、ナイフはなめらかに彼女の心臓を絶っていた。倒れこんだ彼女は苦しそうで辛そうで、どこか嬉しそうだった。
僕は彼女を見ていて、彼女は僕を見ていた。あと一秒で事切れる。そして、
「□□」
彼女が僕の名前を呼ぶ。
それは初めてのことだった。
「ありがとう」
彼女が僕にアリガトウを言う。
それは初めてのことだった。
僕は泣いていた。
それは初めての涙だった。
二〇〇六年七月
僕は今日死ぬことに決めた。