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天使は願いを断らない

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/09/20

 庭の木が折れたとき、セリーヌは針に通した糸を引き抜いてしまった。ようやく通ったところだったのにと窓の外を見ると、枝の間から裸足の足が二本突き出ている。裁縫箱を椅子に置いて駆け出し、裏口でつまずきながら庭へ下りた。


 倒れていたのはセリーヌよりいくらか年下に見える青年だった。白に近い金髪に木の葉が絡み、背中には人の背丈ほどもある羽が重なっている。片方は不自然に曲がり、白い上着に血が染みていた。


「起きないで。誰か呼んでくるから、そのまま待っていて」


「すみません。地面があんなに早く近づくとは思わなくて」


 青年が身じろぎすると羽の先が折れた枝に引っかかった。セリーヌは泥の上に膝をつき、重なった枝を一本ずつ外していく。触れた羽は見た目より温かく、根元を動かすと青年の顔がゆがんだ。


「それも動かさないで。運ぶときに何とかするわ」


「見えなくしておきます。そのほうが扱いやすいでしょう」


 羽が消えたのでセリーヌは手を止めたが、指先にはまだ柔らかなものが触れていた。青年が差し出した腕を肩に回して立たせると、姿の見えない羽が枝を揺らした。


 マルタを呼んで客室へ運び込み、湯と布を持ってきてもらった。傷は肩甲骨の下にあり、シャツを切らないと手当てができない。セリーヌがはさみを入れる間も青年は父の許しを得なくてよいのかと心配していた。


「お父様は工房にいらっしゃるし、帰ってきたら私から話すわ。けが人を庭へ戻せなんて言わない人よ」


 マルタが替えの上着を取りに出たところで、青年はリエルと名乗った。神に仕える天使だという話は背中の羽を見た後では疑いようもなかった。ただ、天使でも転び方を間違えると血が出ることは知らなかった。


「試練を受けに来たのです。人の世で困っている者を助けよと命じられました。なのに最初から助けていただくことになってしまって」


「それなら元気になったら誰かを助ければいいわ。今は腕を下げて。そこを結べないから」


 包帯にした古い敷布を結び終えると、リエルはセリーヌの手を見た。泥と血で汚れた指には針を刺した跡もある。セリーヌは袖口で拭こうとして、そちらも泥だらけだったことを思い出した。


「あなたにはありませんか。何か困っていることが」


 答える前に廊下のほうを見てしまったが、マルタの足音はまだ聞こえず、工房から帰ってくる馬車の音もない。セリーヌは水を張った器へ手を入れたまま、父の商売がうまくいっていないことを話した。


 ロゼール男爵家の工房では上質な羊毛の服地を織っていた。しかし長く付き合っていた問屋が店を畳み、別の買い手を探す間に王都で好まれる色も柄も変わってしまった。倉庫には布が積まれているのに職人へ払う金がない。父は夕食の席でも指で何かを数えており、話しかけると聞いていなかったことを謝るのだった。


「三日後には支払いがあるの。お父様は大丈夫だと言うけれど、書斎へ入るといつも帳簿を閉じてしまうのよ」


 セリーヌが持ってきた布の見本をリエルは両手で広げた。指で厚みを確かめてから窓にかざし、縫い合わせた場合の重さや必要な長さを尋ねてくる。工房を見たこともないのに、外を旅する商隊向けの外套や毛布に仕立ててはどうかと言った。


「流行の服地として売るには色が古いのかもしれません。でも風を防いで長く使えます。見本を作って何軒かの商会に持っていけば、一か所だけに頼らず売れると思います」


 話を聞きながらセリーヌは父がその見本を抱えて店を回る姿を思い浮かべた。帰りの馬車代を惜しんで歩き、疲れた顔で屋敷へ戻ってくる。買ってもらえたとして代金を受け取れるのはいつになるのだろう。


「もっと早くできない? その方法が悪いとは思わないの。でも今すぐ何とかしないと工房がなくなってしまうわ」


 リエルは布の端を折り返していた手を止めた。セリーヌが続けて頼むと少し考え、見本を膝に置いてうなずいた。


「それがあなたの願いなら。明日には立て直すきっかけが来るようにします」


 翌朝、朝食のパンを切る前に玄関の呼び鈴が鳴った。


 客は北へ向かう商隊の買い付け役で、注文していた毛布が手違いで足りず、出発までに残りをそろえたいという。昨夜の宿でロゼール家の布について耳にして、開門を待って訪ねてきたのだった。


 父は最初こそ高級服地を毛布にすることにためらっていたが、相手の示した数量を聞くと席を立った。工房の見本を自分で取りに行き、端の始末なら期日までに間に合うと請け合う。代金の半分を先に受け取りたいという申し出にも客は応じた。


 署名を終えた父の手からペンが転がり落ちた。拾おうとしたセリーヌに気づくと、父は初めて娘が部屋にいたことを思い出したように笑った。


「セリーヌ。今日は帰りが遅くなる。食事は先に済ませておきなさい」


 その晩は本当に遅くまで戻らなかったが、帰ってきた父は用意しておいた肉を残さず食べ、来週にはもう一人職人を戻せそうだと話した。セリーヌも食卓につき直し、冷めた茶を飲みながら全部聞いた。


 リエルは遠縁の家で世話になっていた書記見習いということになった。父は娘が連れてきた青年の出自を確認しようとしたが、リエルとしばらく話した後で滞在を許した。セリーヌにはその会話が聞こえなかったものの、面倒な手続きをしなくて済んだことにほっとした。


 最初の注文を納めると商人は次の仕入れについて相談してきた。父はそれを待つ間にも別の商会へ見本を送り、売れ残っていた布は冬までにほとんどなくなった。屋根の雨漏りが直り、食事には一品増えた。給金を受け取りに来るマルタに父が謝らなくなったことが何よりうれしかった。


「あなたのおかげよ。お父様があんなに楽しそうに仕事をなさるのは久しぶりなの」


 セリーヌは買ったばかりの青い髪飾りをリエルに見せた。屋敷へ来たときには枝に挟まっていた羽も、今はきれいにたためるようになっている。庭で二人になると彼はときどき羽を出し、セリーヌに傷が治ったところを見せた。


「では、もう困っていることはありませんか」


「今はね。でも来月には王都のお茶会に行くの。何を着ていけばいいのか、それだけは困っているわ」


 笑って言ったつもりだったがリエルは真面目に考え始めた。父は新しいドレスを一着作ってよいと言ってくれたものの、それに合う靴も手袋もなかった。去年までの物を使えばよいとマルタは言い、セリーヌも仕方がないと思っていた。


「全部そろっていたほうが安心して行けるのでしょう。お父様と相談してみます」


 翌週には靴屋が寸法を取りに来て、手袋も選べるようにと見本を置いていった。取引先が期日前に代金を払い、父も一度くらいは娘に好きな物を買わせようと思い直したらしい。セリーヌは鏡の前で裾を持ち上げ、新しい靴が見える歩き方を試した。


 お茶会では靴を褒められることはなかった。席は端で、父の工房について話し始めると隣の令嬢が別の話を持ち出した。皆がそちらへ顔を向ける間、セリーヌは言いかけた説明をのみ込み、菓子を取るふりをして手を伸ばした。


 帰りの馬車でリエルに話すと彼は一つずつ聞いてくれた。セリーヌが誰の隣に座り、何を話そうとしたのかまで確かめてから、次はもっと楽しめるようにすると言った。


 次の招待状では主催者の近くに席が用意されていた。話を遮った令嬢はいなかったので気が楽だったが、帰り際にその母親が玄関で主催者と話しているのを見かけた。娘だけ招かれなかった理由を尋ねているらしく、声が廊下まで届いていた。


「お招きする方はこちらで決めることですから」


 セリーヌは二人の横を通り過ぎ、先に馬車へ乗り込んだ。窓越しに見えた母親はまだ頭を下げていた。嫌な思いをする人が変わっただけだという考えが浮かんだが、自分が同じ目に遭っていたときには誰も気にしなかったはずだと思い直した。


「今日は楽しかったわ。あの方がいないと皆さんのお話もよく聞けるのね」


 リエルは向かいの席で手をそろえ、役に立ててよかったと言った。


 王都へ行く回数が増えると衣装箱も増えた。父は請求書を見るたびに眉を寄せたものの、リエルが書斎を訪れた後には仕立屋へ支払ってくれた。マルタだけは箱を開けるたびに置き場所がないと文句を言った。


「同じ色を三着も作らなくてもよろしいでしょう。先月の青いドレスはまだ一度しかお召しになっていません」


「あれは袖が違うの。それに一度会った方のところへ同じ物を着ていくわけにはいかないわ」


「皆様がそこまで覚えていらっしゃるとは思えません。旦那様も今は工房にお金を回したいとおっしゃっています」


 せっかく届いた衣装なのに試着する気がなくなった。セリーヌは箱を閉じさせ、その晩リエルにマルタの機嫌を直してほしいと頼んだ。長く仕えてくれているのだから追い出す気はない。ただ服を着るたびに小言を聞かされるのは困るのだった。


 朝になるとマルタは新しいドレスを用意していた。前夜のことには触れず、セリーヌの髪を結ってくれる。もう怒っていないなら、その話を持ち出す必要はないと思ってセリーヌもあえて謝らなかった。


 そのドレスを着て出かけた夜会で王太子アドリアンに声をかけられた。ロゼール家が商隊へ売った毛布の評判を聞いているという。父の仕事の話だったのでセリーヌも答えやすく、いつもなら途中で飽きられる説明を最後まで聞いてもらえた。


「父は布のことになると譲らないのです。使う糸を変えれば安くできると言われても、傷みやすくなるから駄目だと」


「長く旅をする者にはありがたい判断だ。男爵にもそう伝えてほしい」


 アドリアンは次の曲を踊らないかと手を差し出した。濃い金髪を後ろへ流し、襟元には王家の紋章だけを飾っている。周囲の人々が場所を空けるので、セリーヌは裾を踏まれる心配をせずに歩けた。


 踊り終えて戻ると、それまでセリーヌに背を向けていた夫人が席を勧めてくれた。グラスを渡され、先ほどの話をもっと聞かせてほしいと頼まれる。何を話したのかは帰る頃にはほとんど覚えていなかったが、皆が自分の言葉を待っていたことは忘れなかった。


「私、アドリアン殿下と結婚したいわ」


 リエルに告げたのは屋敷へ戻ってからだった。彼は脱ぎかけの手袋を受け取り、相手の気持ちは確かめたのかと尋ねた。セリーヌはもちろんまだだと答え、だからこそ力を貸してほしいのだと言った。


「殿下のおそばなら安心していられると思うの。今日だって私の話を聞いてくださったし、お父様の仕事も分かってくださったわ」


 リエルは手袋の左右を重ねて机に置いたまま返事をしなかったのでセリーヌは理由を足そうとしたが、その前に彼が顔を上げた。


「お会いできる機会を作ってみましょう」


 春から夏にかけてセリーヌは何度も王宮に招かれた。王太子の立ち寄る催しに席が用意され、宮廷の夫人たちも二人が話せるよう気を配ってくれる。アドリアンはいつも丁寧だったが、結婚については慎重だった。セリーヌを伴って領地を訪ねた帰りに、自分と結婚すれば自由な時間は減ると話したこともあった。


「今日のような訪問は楽しいものばかりではない。君の家族と会う時間も思うようには取れなくなる。それでも考えてもらえるだろうか」


 セリーヌはもちろんだと答えたが、リエルに話すときには、殿下はなぜ何度も同じ心配をなさるのだろうとこぼした。彼が王宮へ出かけた後、その心配を口にされることは減った。


 婚約が決まったのはリエルが庭へ落ちてきてから一年近くたった頃だった。父は祝いの席で何度も杯を持ち直し、うれしいのか怖いのか分からないと言った。セリーヌは笑って父の腕を取り、何も心配はいらないと答えた。


 王宮の部屋には新しい寝台と衣装棚が置かれていた。セリーヌはマルタに荷ほどきを任せ、リエルと窓から庭を眺めた。あの木が倒れなければこうはならなかったのだと話すと、彼は庭師には申し訳ないことをしたと答えた。


 楽しかったのは最初の三日ほどで、朝食の後には歴史の講義があり、昼には外国語、午後には儀礼を覚えなければならない。茶を飲む相手さえ教師が決め、夕方になると翌日の予習を渡される。


 アドリアンに訴えると日程を見直してくれた。しかし減った授業の代わりに領地から来た役人との面会へ連れていかれ、半日かけて橋の修繕について聞くことになった。


「私が聞いていても何も分かりません。専門の方がいらっしゃるのですから、その方にお任せすればよいのではありませんか」


「専門の者が直せると答えても、金を出す許可は王家が与える。橋が落ちる前に判断できるだけの話は聞かないといけない」


 アドリアンは橋の両岸にある村を地図で示した。セリーヌは指先を追いながら、明日の衣装合わせに遅れずに済むだろうかと考えていた。話を聞いているうちに彼のほうから予定を空けてくれるかもしれないと思ったが、結局その日は仕立屋を帰すことになった。


 リエルに頼むと翌週の講義は半分になった。教師は体を休めることも大切だと言い、セリーヌを庭へ送り出した。けれど教科書の同じ箇所でつまずくと、また授業を増やすと言い出すのだった。


「この間は休んでいいと言っていたのに。どうして皆、すぐに気が変わってしまうのかしら」


「新しく困ったことができれば考えも変わります。前に納得してもらったことを、ずっとそのままにはできません」


「それならまた話してきて。私だって困っているのよ」


 リエルは閉じた教科書を持って教師の部屋へ向かった。セリーヌはその間にマルタを呼び、約束していた菓子店へ行く支度をさせた。


 父が王宮へ呼ばれたのは、その店へ三度目に出かけた翌日だった。アドリアンとの面談を終えると父はセリーヌの部屋へ来て、人を待たせてはいけないと注意した。菓子店にいた時間には慈善院の代表者が挨拶に来ていたらしい。


「日を変えていただけば済むでしょう。急に具合が悪くなることだってあるのだし、あちらも気にしていないと聞いたわ」


「お前の前ではそう言うしかないだろう。殿下は初めから何もかもできるようになれとおっしゃっているのではない。せめて約束したことは守りなさい」


 父まで同じことを言うのが嫌になり、セリーヌは窓辺に置かれた花を直すふりをした。工房の注文が増えたのも王宮へ布を納められるようになったのも自分のおかげなのに、少し不都合があると娘の心得から説き始める。


「お父様も私に我慢しろとおっしゃるのね。お金がなかったときは何も言わずに我慢したわ。お店が潰れそうになったときも助けたでしょう。それなのに、いつになったら好きなことをしてもいいの?」


 父は口を開いたが返事をせず、しばらく床を見ていた。セリーヌはその顔を見るといくらか言いすぎた気になった。しかし父が帰った後にはリエルを呼んで、もう説教に来ないよう頼んでいた。


 国王オズワルドは父とも王太子とも違っていた。晩餐でセリーヌが黙っていると自分から話しかけ、講義の愚痴を聞いて声を上げて笑った。


「私も若い頃は逃げたものだ。アドリアンは生真面目すぎる。妻まで役人に育てる必要はないのにな」


 隣でアドリアンが顔を上げたが、国王は息子が話し始める前に別の皿を勧めた。セリーヌは礼を言って受け取り、久しぶりに食事を楽しめたと感じた。


 その後も国王は彼女を庭の散歩や観劇へ誘った。五十を過ぎた体は大きく、歩く速さはセリーヌに合わせてくれる。指輪を褒めれば外して見せ、新しい馬車が欲しいと言えば職人を呼んだ。王太子に頼むと理由や費用を聞かれることも、国王ならその場で決まった。


 前王妃が亡くなってから空いている席を見たのは、王家だけの食事に招かれた夜だった。国王の右側には誰も座っておらず、アドリアンの隣からその席を眺めるうち、あそこなら誰が自分に授業を受けろと言うのだろうと思った。


 部屋に戻ったセリーヌはリエルに茶を勧め、国王が贈ってくれた腕輪を箱へ収めた。話を切り出すときには、断られるとはあまり考えていなかった。


「殿下との結婚はやめたいの。私には合わないと思うわ。陛下なら私が嫌だと言うことを無理にさせたりしないもの」


「婚約を解消して、陛下と結婚なさるのですか」


「ええ。陛下もお一人で寂しそうだし、私がおそばにいれば喜んでくださるわ」


 リエルは茶に手をつけず、注がれた器へ目を落としていた。セリーヌは国王と二人でいるときの話を続けたが、彼は途中でアドリアンの名を口にした。


「殿下はあなたと暮らすつもりで準備をしておられます。ご自身の父君に嫁ぐとなれば、ただ婚約を解くよりも傷つかれると思います」


「だったら私にこのまま結婚しろと言うの? 前は助けてくれたのに、一度お願いしたら変えてはいけないのね」


 セリーヌが茶器を押しやると思ったより大きな音がして、リエルの手が器のほうへ伸びた。彼がこぼれた茶を拭く間にセリーヌは目を伏せ、毎日ここにいるのがつらいのだと告げた。


「あなたまで我慢しろと言うなら、もう誰に頼めばいいのか分からないわ」


 リエルはぬれた布を握ったまま彼女を見ていた。やがて布を盆へ戻し、いつもより間を置いて答えた。


「それがあなたの願いなら」


 婚約の解消が認められるまでには二か月かかった。リエルは何度も国王の部屋へ出向き、王太子や大臣にも会った。最初は父親である自分が息子の婚約者を妻に迎えるなど考えられないと言っていた国王も、最後にはセリーヌのためを思うなら受け入れるべきだと語った。


 アドリアンは私室へ来て一度だけ考え直すよう求めた。セリーヌが断ると彼は自分の贈った指輪を返してほしいと言った。結婚について説教されると思っていたので、用意していた言葉は使わずに済んだ。


「あなたなら他にもっとふさわしい方が見つかるわ。私といても疲れるだけでしょう」


「君がそう決めたことは分かった。だが、父上との結婚に私が賛成したと書かせるのはやめてほしい」


 セリーヌは指輪を外して彼の差し出した手に載せた。扉が閉まった後でリエルにあの言い方はひどいと訴えると、彼は翌日の会議が荒れないようにすると答えた。


 結婚式が行われた初夏には、あの庭で天使を拾ってから一年半近くが過ぎていた。セリーヌは国王の隣に座って祝辞を受けていた。父は列の後ろで頭を下げ、アドリアンは決められた挨拶を終えると離れていった。リエルは書記の服で壁際に立ち、彼女が目を向けるとうれしそうに笑った。


 王妃の生活は婚約者だった頃よりはるかに快適だった。起きる時間を自分で決められ、教師を呼ばなくても誰にも責められない。気に入らない部屋は直させ、以前の夜会で見下してきた夫人たちを廊下で待たせておけた。


 ただ、財務を預かる大臣だけは何かを注文するたびに費用の話を持ち込んだ。王家の年間の支出額を示し、予定にない改築は翌年へ回すべきだと言う。新しい庭園の図面には赤い線が何本も引かれていた。


「私の庭なのに、どうしてあなたが噴水の数を決めるのですか」


「陛下のお住まいであっても工事には職人への支払いが必要です。今年は川の補修と穀物の備えに多くを充てています。庭園に回せる額は限られております」


 セリーヌは図面を取り返して大臣を下がらせた。国王に相談すると工事を認める書面を書いてくれたが、大臣は次の会議でまた異議を述べた。アドリアンも同意し、王家の出費を抑えるよう進言したと聞いた。


「まだ婚約のことを怒っているのよ。あの大臣と一緒になって私を困らせたいのだわ。あの人たちが口を出さなければ済むことでしょう」


 リエルは図面と大臣の書いた金額を見比べた。工事を分けて進めればよいのではないかと言ったが、セリーヌは祝宴の日を決めてあると答えた。今から延期すれば王妃の命令が通らなかったと思われてしまう。


「大臣を替えて。殿下にも他のお仕事をしていただけばいいわ。陛下が認めてくださったことに、いつまでも反対されては困るの」


「それがあなたの願いなら」


 大臣は職を解かれ、アドリアンは遠方の王領の管理を任された。代わりに入った者は会議より先にセリーヌの部屋へ伺い、必要な書類だけをそろえて持ってくるようになった。国王は彼女にせがまれると署名し、セリーヌは書類の束をそのまま書記へ返した。


 金が足りないと言われたときには王家の領地から入る税を先に借り受けた。それでも足りなくなると新しい財務官が国庫の別の項目から移す案を持ってきた。穀物を備えるための金なら額が大きく、工事を止めずに済むという。


「後で戻せばよいのでしょう。今ここで止めるほうが無駄になるわ」


「用途を変えるには貴族会議の承認が要ります。備蓄用の倉庫を建てるという名目なら、陛下の決裁で進められますが」


 財務官は言い終えるとセリーヌの返事を待った。図面に穀物を置く場所はなく、窓を大きく取った離宮が描かれている。セリーヌは表紙の文言を直すよう指示し、その日のうちに国王の署名を得た。


 リエルにも話すと彼は支払いを戻す時期を尋ねた。セリーヌは次の税が入れば戻せると答え、心配なら入金が早まるようにしてほしいと頼んだ。彼がそれ以上尋ねなかったので、詳しいことは財務官に任せてよいのだと思った。


 夏の終わりには隣国のベルナード公国を訪れた。公妃が珍しい花を集めていると聞き、庭園が完成する前に見ておきたくなったのだった。外交の担当官は先方の予定を確かめる時間が欲しいと言ったが、季節が終われば花は散ってしまう。


 リエルが先に出向くと訪問は受け入れられた。用意された館は宮殿より狭かったので、セリーヌは食事の席でそのことを口にした。公妃の手が止まり、通訳の声が途切れたところでリエルが言葉を添えた。相手は笑って別の館を勧め、翌日には部屋を移れた。


 帰国すると外交官から今回の訪問に伴う費用と先方の要望を報告された。セリーヌは費用の話を財務官に回させ、要望は国王へ伝えるよう命じた。欲しかった花の苗は手に入ったので、その国の話はもう終わったつもりだった。


 秋には公国から通商の条件を決める使節が来ることになっていた。ところが庭園の工事が遅れ、完成の祝宴が使節の滞在日と重なった。外交官は祝宴の翌日なら国王が交渉に出られると提案したが、セリーヌは翌日も客人を招く予定だと断った。


「交渉はあなた方でなさい。最後の席に陛下がいなければならないなら、別の日にもう一度来ていただいて」


「使節には帰国の期日がございます。今季の穀物と染料の契約は今回決めなければ、他国の買い付けが先になります」


 何度説明されても、なぜ自分の祝宴を変える必要があるのか分からなかった。使節は怒っていると聞かされ、セリーヌはリエルを呼んだ。彼が応接室へ入った後は大きな声も聞こえなくなり、使節は丁寧な別れの挨拶を残して帰った。


 交渉の書類は未署名のまま机へ戻ってきた。外交官がまた説明を始めたのでセリーヌは祝宴が終わってから聞くと言い、花の配置を確かめに庭へ出た。


 完成間近の庭園では職人たちが最後の石を敷いていた。セリーヌが噴水を見ているとマルタが近づき、厨房の使用人が話をしたがっていると告げた。面識のある男だったので会ってやることにしたが、彼は挨拶もそこそこに給金について話し始めた。


「二か月分がまだ出ておりません。私だけではなく洗濯場の者もです。祝宴に向けて食材は届くのに、どうして給金だけが遅れるのでしょうか」


「担当に言ってちょうだい。私は支払うように命じているわ」


「そちらでは次の入金まで待てとしか言われません。家の者にも食べさせなければなりませんので」


 リエルが男へ近づいたのでセリーヌは呼び止めた。噴水の周りに置く鉢がまだ届いていなかった。今確認しなければ明日の朝に間に合わないかもしれない。


「先にこちらをお願い。鉢が来なければ置く場所も決められないわ。給金はその後で財務官と話してくれる?」


 リエルは男の顔を見た後でセリーヌにうなずいた。男にはもう少し待ってほしいと告げ、搬入を指揮する者のほうへ歩いていく。男は何か言いかけたが口を閉じ、帽子を手の中で握り直して厨房へ戻った。


 祝宴には間に合い、噴水の周りには鉢が並んだ。料理は途切れずに運ばれ、楽団も最後の曲まで演奏した。国王は庭を気に入り、セリーヌに好きな名前をつけてよいと言った。招いた夫人たちはその言葉を聞いて新しい庭の名を尋ねてきた。


 セリーヌは池に面した離宮の窓から客を見下ろした。以前は自分が招待を待っていた人々が、今は王妃に呼ばれる順番を待っている。夫は望みを聞き入れ、父の家業は続いており、反対する王太子は遠くにいた。


 客が帰った後もセリーヌは窓辺を離れなかった。リエルが部屋に入ってきたので、厨房の者はどうしたのかと尋ねた。彼は財務官が翌月の収入から支払うと約束し、使用人たちにも待ってもらえたと答えた。


「よかった。これで全部片づいたのね」


 リエルは窓の外を見てからセリーヌに向き直った。王宮へ来た頃より長くなった髪を耳にかけ、初めて会ったときと同じ丁寧な声で尋ねた。


「満足しましたか」


「ええ、もうこれ以上望むモノはない」


 セリーヌは笑って答え、窓枠に置いた手を広げた。ここにある物は全て自分のために用意されている。今夜は誰も彼女を責めなかったし、明日の朝に授業も面会もなかった。


「それを聞けて安心しました。では、私は天へ戻って報告をしてきます」


 リエルの背に羽が現れると、セリーヌは窓を開けるのを手伝い、裾が引っかからないように持ち上げてやった。最初の日とは違い、白い羽には泥も血もついていなかった。


「今度は落ちないように気をつけて。助けてくれる人がいないと大変よ」


「今度は大丈夫です。セリーヌ様もお元気で」


 リエルは笑顔で窓から離れ、灯りの届かない高さへ飛んでいった。セリーヌは姿が見えなくなるまで手を振り、窓を閉めてマルタを呼んだ。王妃の衣装を脱ぐには何人もの手が必要で、待っている間に少し眠くなった。


 翌朝、仕立屋は新しい布の見本を持ってこなかった。代わりに届いた手紙には注文済みの品の代金が記されていた。未払い分を受け取るまでは次の注文に応じられないという。


 セリーヌは手紙をマルタに返し、請求先を間違えていると伝えるよう命じた。王妃が自分で財布を開けて払うものではない。財務官の署名をもらえば店主も納得するはずだった。


「財務の係には何度もお持ちしたそうです。今月も延びるのであれば店を続けられないと」


「では別の店を呼んで。王宮の仕事を引き受けたい者はいくらでもいるでしょう」


 別の店からは前金で半額を求められ、セリーヌは腹を立てたが、国王の名前を出しても返事は変わらなかった。いつもならリエルに一言頼めば済む話だったので、彼が戻ってから注文し直すことにした。


 ところが支払いを求めてくるのは仕立屋だけではなかった。花屋は定期の納品を止め、肉屋は以前の半分しか届けなくなった。財務官を呼ぶと借入先との話がつくまで待ってほしいと言う。次の収入はどうしたのかと問い詰めれば、それにも先に払う相手が決まっていると答えた。


「同じお金の話を何度しているの。庭の費用は借りて済ませたでしょう。税が入ったら戻せばいいと言ったはずよ」


「その税収を返済に充てる条件で借りております。入った分を自由に使うことはできません」


 セリーヌは国王の部屋へ行き、財務官が金を出さないと訴えた。国王はその場で支払命令を書き、持っていけばよいと渡してくれた。しかし命令書は翌日も財務の机に置かれたままだった。


 返事を持ってきた下役は王家の領地から入る収入もすでに約束に使われていると説明した。新たに借りるなら貴族会議の保証が必要で、会議は国庫の使途を調べるまで認めないという。セリーヌはそこまで聞いて下役を追い出した。


 夕方になるとセリーヌは一人で庭へ出てリエルを呼んだ。最初は声をかける程度だったが返事がないので、離宮の窓へ戻って外に向かって名前を呼び直した。以前は廊下に姿がなくても呼べば来てくれた。天へ戻ってまだ数日なのだから、報告に手間取っているだけかもしれなかった。


「戻ったらこちらへ来て。少し困ったことになったの。あなたが話してくれれば済むことだから」


 見張りの兵が庭で顔を上げたので窓を閉めた。誰に向かって話しているのか尋ねられるのは面倒だった。翌朝には戻るだろうと思い、セリーヌは着替えを命じた。


 その月の終わりには公国との取引について報告が来た。穀物はすでに他国へ売られ、染料も以前の価格では手に入らないという。急いで使節を送るよう命じたが、先方からは面会できる日の候補だけが返ってきた。どれも次の季節に入ってからの日付だった。


「こちらの事情を書き添えたの? 急ぐからお願いしているのよ」


「先方にもご予定があります。以前の交渉を取り消した際にも、そのお話は申し上げました」


 外交官は書簡の写しを差し出したが、セリーヌが受け取らずにいると机へ置き、返答の案は用意すると言って下がった。以前なら一度命じたことに言い返したりしない男だった。


 父へ送った手紙にも期待した返事は来なかった。金を届ける代わりに父自身が王宮へ来て、これ以上は渡せないと言った。セリーヌは応接室の扉を閉めさせ、工房がまだ動いていることを確かめた。


「動いているなら売る物はあるのでしょう。先に代金をいただけばいいわ。前にもそうしたではないの」


「前金はもう受け取っている。あれは仕入れと職人の賃金に使う金だ。お前に渡せば約束の品を作れなくなる」


「私が助けなければ工房ごとなくなっていたのよ。それなのに今、私が困っているときには何もしてくれないの?」


 父が膝の上で手を組むとインクのついた指が以前より太く節立って見え、セリーヌはその手を見たくなくて父の顔に視線を戻した。


「何度も金を出した。止めるべきときに止めず、それで済ませてきたのは私の間違いだ。だが職人の家まで潰すわけにはいかない。庭園を売り、宝石を手放すことを考えなさい」


「王妃に持ち物を売れと言うの。そんなことをしたら何と言われるか分からないわ」


 父は返事をせず、持ってきた手紙を机に置いた。工房の収支と取引の予定が書いてあるという。セリーヌは開かずに脇へ押しやり、立ち去る父に茶も勧めず、その日もリエルを呼んだ。


 使用人が一人辞めると、翌週には洗濯場の者が二人辞めた。別の仕事が見つかった者からいなくなるのだとマルタが言った。セリーヌは新しい者を雇えばよいと命じたが、募集を出しても条件を尋ねるだけで来ない者ばかりだった。


 朝の支度が遅れ、昼の食事には冷めた皿が出た。怒って呼び鈴を鳴らしてもすぐには誰も来なかった。セリーヌは廊下へ出て人を呼び、ようやく現れた下働きに皿を投げつけた。壁で割れた皿を見て下働きが立ち去ると、破片は夕方まで床に残った。


 マルタが辞職願を持ってきた日は雨だった。髪を結い終えてから手紙を差し出し、翌週で暇を取りたいと言った。セリーヌは鏡の中の顔を見ながら、給金ならもう少し待つよう答えた。


「リエルが戻れば払えるわ。あなたはうちが苦しかった頃も知っているでしょう。あのときもちゃんとよくなったではないの」


「家賃を待ってもらえるのが今月までなのです。こちらへ移ってから借りている部屋を出なければならなくなります。次のお屋敷では住むところを用意してくださるので」


「私を置いていくのね。誰が着替えを手伝うの。あなたが選んだ衣装ばかりなのに」


 マルタは開いた衣装棚を見て、少し間を置いてから、前で留められる服を手前へ出しておくと答えた。セリーヌは辞職願を投げ返そうとして手を上げたが、鏡越しに彼女の顔を見て動きを止めた。泣きもせず、許しを求める様子もなかった。


 約束した日になるとマルタはいなくなった。机には未払いの給金を記した紙が残り、引き継いだ者の名前が添えられていた。セリーヌはその紙を裏返し、リエルへの手紙を書こうとした。けれど届け先が分からず、名前を書いたところでペンを置いた。


 王領からアドリアンが戻ったのは冬に入る前だった。貴族会議の代表者とともに国王へ謁見し、軍の給金と穀物の備えについて問いただしたという。国王は王妃の支出とは別の問題だと答えたが、財務官を呼ぶとその日のうちには帰してもらえなかった。


 翌朝、帳簿と命令書を提出するよう王妃の部屋にも役人が来た。セリーヌは国王の許しがあるのかと尋ね、許可書を見せられると夫に会わせるよう求めた。役人はまず書類を受け取りたいと繰り返した。


「この者たちを捕らえなさい。王妃の部屋へ勝手に入り、持ち物を奪おうとしています」


 扉にいた近衛兵は動かず、セリーヌがもう一度命じると隊長が許可書を確かめ、調査には王印があると答えた。


 セリーヌは私室へ戻ろうとしたが役人に呼び止められた。机から書類を持ち出さないでほしいと言う。取り上げたのは庭園の工事を命じた書面で、表紙には穀物の備えに関わる倉庫の建設と記されていた。


「陛下の署名があるわ。見れば分かるでしょう。私が一人で決めたことではありません」


「その点もお尋ねします。こちらの建物を倉庫と記すよう命じられたのは、どなたですか」


 返事の代わりにセリーヌはリエルを呼んだ。役人たちは顔を見合わせ、書記の青年なら所在を調べていると答えた。セリーヌは助けを呼んだのであって、そのような返事を求めたのではなかった。


 国王が退位に同意したことは三日後に知らされた。夫に会いたいという願いは認められず、国王も別の館で人の出入りを制限されていると聞いた。食事を持ってくる者は新しい顔ばかりになり、扉の前には常に兵が立つようになった。


 セリーヌのもとへは何度も調べの者が来た。表紙を書き換えた命令書、取引先に待つよう求めた書簡、使節の予定を取り消す指示書が並べられた。財務官は自分が受けた命令を細かく証言し、国王も書面への署名を認めたという。


「では陛下がお決めになったことではありませんか。なぜ私ばかり責めるのです」


「前国王の責任も審議されています。あなたへの問いは、使い道を偽って国庫から金を出させた経緯についてです」


 セリーヌは返すつもりだったと答え、何度聞かれても同じ言葉を繰り返した。本当に返せないとは思っていなかったし、リエルがいれば次の入金を待ってもらえたはずだった。


 男爵令嬢だった頃に天使を助けた話をすると、調べの者はペンを止めた。セリーヌは羽の色や傷の場所まで説明し、彼が戻れば皆が納得すると訴えた。書記のリエルが天使だったと証言できる者を尋ねられ、セリーヌは庭で一人だった日のことを思い返した。


 マルタが来たときにはもう羽は見えなかった。父にも見せたことはなく、王宮では普通の青年として通していた。独り占めしたくて隠していたわけではない。ただ説明すると面倒になるから言わなかった。それがこんなときに不利になるとは思わなかった。


 審理の続く間もセリーヌは毎日窓から空を見上げた。髪は自分で結い、食事は運ばれてきた物を食べた。何日かたつと怒鳴る回数は減ったが、リエルを呼ぶことだけはやめなかった。


 年が明けてから判決を聞くために広間へ連れていかれた。公金を偽りの名目で引き出し、国の備えを失わせた罪が読み上げられた。調査役を不当に捕らえようとした命令も添えられ、貴族会議の裁定として死刑が告げられた。


 セリーヌは言葉の意味が分からず、傍らの役人に今の話は自分のことかと聞いた。前国王は王位と私有領を失って生涯の幽閉を命じられ、財務官も処罰を受けるという。役人は皆が裁かれることを説明したが、セリーヌには自分が死ぬ理由への答えには聞こえなかった。


 最後にアドリアンへの面会を求めると許された。彼は新しい国王としてではなく証言を確かめるために来たと告げ、席には着かなかった。セリーヌは格子の向こうへ手を伸ばし、処刑を延期してほしいと頼んだ。


「リエルが戻るまで待ってください。あの人がいれば何とかなるのです。私が殿下との結婚を望んだときだって、あの人が話をしてくれたでしょう」


 アドリアンは彼女の手を取らず、しばらく顔を見ていた。セリーヌはその沈黙がつらくなり、父の工房の話からやり直した。破産しそうだった家が翌日には救われたことを話し終えると、彼は目を伏せた。


「私は婚約を決めた自分の判断が分からなくなったことがある。父上との結婚を聞いたときも、怒っていたはずなのになぜか言葉が出なかった。君の話が本当なら、確かめたいことはある」


「では待っていただけるのね」


「その者が見つかれば調べる。だが、金をどこへ使うかを命じたのも書類を書き換えさせたのも君だ。それは自分で認めている」


 セリーヌが次の言葉を探している間にアドリアンは離れた。呼び止めても振り返らず、扉の閉まる音だけが返ってきた。セリーヌは格子を握ったままリエルの名を口にし、今度こそ急いでほしいと頼んだ。


 処刑の日は晴れていて、馬車の窓からは冬の雲が見え、人の集まった広場へ近づくにつれて声が大きくなった。悪女という言葉が聞こえたので顔を引いたが、屋根に隠れて空が見えなくなり、また窓へ寄った。


 台へ上がろうとすると兵が左右から腕を支えた。セリーヌは階段の途中で足を止め、天を仰いだまま待ってほしいと言った。まだ飛んでくる姿が見えず、見えなくしているのかもしれないと思い、隣の何もない場所へ話しかけた。


「リエル、いるのでしょう。もう出てきて。私がこんなところに連れてこられているのよ」


 兵は黙って彼女を台の上まで連れていき、決められた位置に立たせた。首元の衣服を直され、髪が邪魔にならないようにまとめられた。手が震えて髪留めを落としたが、誰も拾ってはくれなかった。


「お願い。あのとき私が助けたでしょう。今度はあなたが助けて。いつもみたいに皆と話してくれればいいの」


 頭を伏せさせられると空が見えなくなった。顔を上げようとして押さえられ、セリーヌは名前を呼び続けた。刃が落ち始めたときも、唇は助けを求める形に動いていた。


     *


 天の牢には地上の声も人々の祈りも届かなかった。リエルは処刑の行われたことを知らず、扉の下に置かれた食事にも気づかないまま壁際に座っていた。羽は留め具で閉じられ、立ち上がっても広げられなかった。


 帰還した日に差し出した報告書は手元へ戻されていた。最初のページには傷の手当てを受けたことと、男爵家の事業を助けた経緯が書かれている。最後のページにはセリーヌが何も望まないと答えたと記してあった。


 審査で詳しく調べられたのはその間に書き連ねた記録だった。厨房の男が給金を求めた場面を開かれ、なぜ彼を待たせたのかと問われた。リエルは庭園を完成させてから支払いを済ませるつもりだったと答えた。


 しかし支払いは済んでおらず、待つように話しただけで、男は家へ金を持ち帰れていなかった。財務官が示した翌月の収入にはすでに別の支払先があると、リエル自身も前の記録に書いていた。


 男爵家の最初の取引では品物を必要とする者を探した。後には理由を調べるより、セリーヌの部屋へ戻って喜ぶ顔を見るほうを急いだ。人の判断を曲げてまで願いを通し、困っている者を増やしたとして試練の失敗を告げられた。投獄を命じられたときには、セリーヌへ帰れないと伝えることも許されなかった。


 地上へ戻りたいという願いは何度も退けられていたが、リエルは報告書を閉じて扉へ近づいた。それでも庭の泥に膝をつき、羽に絡んだ枝を外してくれたセリーヌを思い出すと、ここで待っていることができなかった。


「一度だけでも戻してください。あの方は困れば私を呼びます。行けないことを知らないのです」


 扉の向こうで足音が止まったが返事はなかった。リエルはもう一度頼もうと口を開き、取っ手のない扉に手を当てたまま相手が去るのを聞いていた。

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