第九話 居場所の灯
稽古場を出た夜、三浦啓之助は庭の縁に腰を下ろしていた。
竹刀を握りしめた手は腫れあがり、力を込めるたびに痛みが走る。心はさらに重く、胸の奥には自己嫌悪だけが渦巻いていた。
——父の仇討ちを口にしながら、刀も抜けなかった。
——命を賭して斬りかかってきた浪士と比べれば、自分は何と臆病なのだろう。
頭を抱えていると、縁側の向こうから静かな足音がした。
「三浦君、まだ残っていたのか」
声の主は山南敬助だった。温和な面差しに淡い笑みを浮かべ、手には湯気の立つ湯飲みを持っている。
「稽古の後は水より茶の方がいい。体を冷やすと怪我が長引く」
啓之助はうつむいたまま、受け取った茶を両手で抱えた。温かさが指先に広がり、少しだけ胸のざわめきが和らぐ。
「……自分が情けないのです」
掠れた声で、ようやく言葉を絞った。
「あの浪士は、仲間の仇を討つために命を懸けていました。それなのに、私は……ただ震えて、刀を抜くことすらできなかった」
山南はすぐには答えず、庭の柳を揺らす夜風に耳を澄ませた。
「怖れるのは当然だよ。人を斬るのは遊戯ではない。怖れを知らぬ者こそ、危うい」
「でも、それでは父の仇など——」
「焦ってはいけないよ」
山南の声は穏やかだが、深い力を帯びていた。
「志は一朝一夕で成るものではない。怖れを知り、それを抱えたまま剣を振れるようになれば、それが本当の強さになる」
啓之助は返す言葉を失い、ただ茶を口に含んだ。温かさが胸を通り過ぎる。
そこへ、ひょっこりと藤堂平助が顔を出した。
「お、やっぱりここにいたか。山南さん、ずるいですよ。僕も混ぜてくださいよ」
まだ少年の面影を残す顔に人懐こい笑みを浮かべ、藤堂はどさりと啓之助の隣に腰を下ろした。
「いやぁ、永倉さんや沖田さんに稽古つけてもらうと、誰でも半泣きになるよ。僕なんて最初は毎日のように畳に転がされてから」
藤堂の気安い言葉に、啓之助は思わず顔を上げた。
「……藤堂さんも、そうだったのですか」
「もちろん。強い奴ほど手加減してくれないからね。でも、そこで逃げなかったから今こうして彼らと並んで一緒に巡察に出られる。君だって同じだよ」
山南がうなずき、静かに言葉を重ねる。
「君はもう、ここにいる。失敗をしても、恐怖に縛られても、それでも立ち上がろうとしている。それが大事だよ」
啓之助は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
(この人たちは、自分を笑い者にするためだけに言葉をかけているのではない。
弱い自分を、それでも受け入れてくれようとしている)
「……ありがとうございます」
小さな声でそう呟くと、藤堂が大げさに肩を叩いた。
「僕ら仲間だよ? いつか一緒に胸張って京の町を歩こうじゃないか」
「ええ、その日を楽しみにしているよ」
山南の柔らかな笑みが、啓之助の心に深く刻まれた。
その夜、啓之助はようやく少し眠ることができた。
まだ弱い。まだ未熟。だが、新選組の中に、自分の居場所があるかもしれない。
そう思えたのは、初めてのことだった。




