第七話 仇討ちの刃
数日後、巡察の夜。
秋も近い京の空気は澄み、吐く息が白く見えるほど冷えていた。月が瓦屋根を照らし、路地は昼の賑わいが嘘のように静まり返っている。
土方歳三を先頭に、山南敬助、三浦啓之助、そして数名の隊士たちが列を成して歩く。草鞋の擦れる音と、時折風に揺れる行灯の微かな軋みだけが、夜の町に響いていた。
「足を乱すな。気を抜けば死ぬぞ」
副長・土方の声は低く、刃よりも鋭かった。
啓之助は慌てて背筋を伸ばした。喉が乾いて仕方がない。腰に佩いた刀がやけに重く、歩くたびに鞘が腿に当たるのが痛いほど意識に残る。
数日前の初陣を思い出し、胸がざわつく。あのとき見た血の匂いがまだ鼻腔にまとわりついて離れなかった。
今日は何もありませんように。
啓之助はそんな弱気な考えに支配されていた。
そのときだった。
「池田屋で散った仲間の仇ッ!」
夜の闇が裂けた。路地の陰から浪士が飛び出す。
振り上げられた刀が月明かりに反射し、鋭い閃光を描いて啓之助めがけて振り下ろされた。
「——っ!」
体が動かない。
腰の刀に手をかけようとする。だが腕は鉛のように重く、指は柄に触れたまま硬直してしまう。足は地面に縫いつけられたかのように震え、喉は塞がれて息すらまともに吸えなかった。
刃が迫る。逃げられない。
その瞬間、閃光のように土方が前へ躍り出た。
「退け、小僧!」
金属がぶつかる鋭い音とともに火花が散った。
次の瞬間、浪士の喉を深々と斬り裂く一閃。くぐもった呻きが闇に響き、浪士の体は石畳に崩れ落ちた。鮮血が迸り、啓之助の袴の裾を汚した。
啓之助は立ち尽くした。
肺が掴まれたように呼吸ができない。目の前でまた人が死んだ。しかも、自分を狙った刃を、土方が受け止め、そして斬ったのだ。
鉄臭い血の匂いが夜気に混じり、鼻孔を刺す。目の前の地面に広がる赤が、まるで自分を呑み込もうとしているように見えた。
「……動けねぇか」
冷酷な声が頭上から落ちた。
土方が振り返って見下ろしている。氷のように冷たい眼差しが、啓之助の胸を突き刺した。
「刀も抜けずに立ちすくむとは、笑わせる。仲間に守られて恥ずかしくねぇのか。近藤さんに気に入られてるからって、甘えが抜けねぇのか」
唇が震える。喉から声を出そうとしても、空気が擦れるばかりで言葉にならない。
必死に絞り出した声は、かすれて掠れていた。
「……す、すみません……」
土方は鼻で笑った。
「次はねぇ」
低い声音は刃よりも鋭い。
「今度同じ真似をしたら、敵より先に俺がお前を斬る」
啓之助の心臓は凍りついた。土方の言葉に嘘はないと、直感が告げていた。
沈黙を破ったのは、山南敬助だった。
「土方君。彼はまだ十六。初めて人の刃を受けたのです。足がすくむのも無理はありません」
静かな声だった。怒りも嘲りもない。ただ真っ直ぐに啓之助を庇う響き。
啓之助は顔を上げた。山南がこちらを見つめていた。優しく、だが逃げ場を与えぬ眼差しで。
「大事なのは、今日を学びに変えること。三浦君、恐怖を覚えたなら、それを忘れず鍛え直せばいい」
言葉は柔らかくも、確かに胸へ刻み込まれた。
啓之助は深く頭を垂れる。
「……はい」
だが、心の奥には土方の冷酷な声が突き刺さったままだった。
(次に同じことをすれば、土方さんに斬られる)
それは脅しではなく、現実に起こり得る未来のように感じられた。
月明かりの下、地面に広がる血痕は黒々と光り、啓之助の胸を重く沈めていった。
恐怖と羞恥と、そして悔しさ。その全てが混ざり合い、まだ幼さを残す少年の心を容赦なく締め付ける。




