第六十四話 比翼の仇
明治十年二月二十六日。
冬の東京は、いつになく穏やかだった。
瓦斯灯の列が通りを照らし、馬車の音が遠く響く。
街には進取の気風が満ち、文明開化の旗が風にたなびいていた。
斎藤と再会してから、三年が経つ。
三浦啓之助——二十九歳。
今では司法省の判事として、数々の裁判を担当し、人々に“法の剣”を振るう日々を送っていた。
新選組入隊の頃は十六歳。
血にまみれ、憎しみに呑まれた少年が、今では法の衣を纏い、冷静に人を裁く立場になっている。
今日もひとつの裁判を終え、上司の言葉が胸に残っていた。
「啓之助君、君ももう二十九だ。身を固める時分じゃないか?」
苦笑が漏れる。
「……私が、父になるのか」
父——佐久間象山。
あの日、血の中で聞いた最期の言葉が、ふと脳裏をかすめる。
『啓之助……斬られたのがお前でなくて良かった……』
(父上、あなたの言葉で私はようやくここまで辿り着けました。
もしも子を持てたなら、私はその命を決して復讐のためには使わせない——)
春の気配が混じる風の中、啓之助はお見合いの話を受けて帰路についた。
瓦斯灯がぽつぽつと並ぶ坂道を下る。
どこかで三味線の音が聴こえ、下町の屋台からは焼き鳥の匂いが漂ってきた。
(……幸せだ。ようやく、人を斬らない時代に地に足をついて生きている)
そう思った瞬間だった。
背に、冷たい違和感。
ひやりと、まるで氷の指先が触れたような感覚。
次いで、それは熱に変わった。
啓之助が視線を下ろすと、腹の辺りから、鈍い銀が突き出ていた。
「……え?」
刀身が引き抜かれ、温かいものが一気に流れ出す。
膝が折れ、瓦斯灯の光が滲んで見えた。
横向きに倒れた視界の端に、“彼”の姿が立っていた。
白い息を吐き、凍えるような眼差しをした少年。
年の頃は十五、十六。
女性のように整った顔立ち、だがその瞳は氷のように澄んでいる。
(……私は、この顔を知っている)
「僕は——河上彦太郎。
父、河上彦斎を処刑に追いやったのはお前だろう。
司法省の犬め!」
その名を聞いた瞬間、血の気が引いた。
(河上彦斎……の……息子……?)
違う、と言おうとした。
だが口から出たのは、言葉ではなく、鮮やかな血だった。
鉄の匂いが、夜の風に溶ける。
少年の手が震えているのが見えた。
その刃は恐怖に震えていた。
(やめろ……その手を、汚すな……)
声にならない声で、啓之助は喉を鳴らした。
だが、血が泡のように溢れ、声にはならなかった。
彦太郎は唇を噛み、涙をこぼしていた。
「父上は……無実だったのに……!
お前らが……お前が法で殺したんだ!」
啓之助は苦しげに微笑んだ。
震える手を、少年の頬の方へ伸ばす。
「……私は……君の……父上を尊敬している……」
かすれる声で、それだけを言った。
少年の顔が歪む。
「黙れ!」
啓之助の身体から力が抜けた。
冷たい血が手のひらを伝い、夜の街の隅へと流れていく。
啓之助の視界の上に、瓦斯灯の光が滲んで広がる
——ああ、あの日の竹藪の光に似ている。
(……私は結局、仇討ちから始まって……仇討ちに殺されるのか)
その思考に、奇妙な静けさがあった。
すべてを赦すような穏やかさ。
(だが、若い君には……生きてほしい。
そして、この憎しみの連鎖を……どうか……どうか終わらせてくれ……)
声にならぬまま、唇が微かに動いた。
その言葉を、少年は読めなかった。
ただ、冷たくなっていくその姿を見つめるしかなかった。
夜風が吹き、瓦斯灯が揺れる。
その光が、一瞬だけ二つに分かれて見えた。
比翼の鳥のように寄り添いながら、やがて一つの闇へと溶けていく。
(父上。私はこの人生をやりきれたでしょうか?
血ではなく、言葉で。剣ではなく、法で。
そうして得たものに意味はあったのでしょうか)
ぬるい風が優しく啓之助の頬を通り抜ける。
(ありがとうございます。父上)
そして、啓之助の瞳は静かに閉じられた。
その唇には、わずかな微笑が残っていた。
瓦斯灯がひとつ、ふっと揺らぎ灯火を消した。




