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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第六十三話 古狼の警官

 明治七年七月。

 蝉がやかましく鳴き、石畳の道を照り返す陽光が眩しかった。

 東京の街は、かつての江戸とはすっかり姿を変えていた。

 洋館、馬車、帽子を被った紳士淑女。

 文明開化の香りが、風に乗って鼻をくすぐる。


 啓之助は、白いシャツの襟を正しながら歩いていた。

 司法省に勤めて三年。判事としての職にも慣れ、案件を冷静に捌く日々が続いていた。

 ——かつてのように血にまみれることも、夜ごと夢に魘されることも、もうない。

 そう思っていた。


 だがその日、運命は思いがけない形で過去を呼び覚ました。


 銀座の交差点で、青い制服の警官とすれ違った瞬間——

 啓之助は息を呑んだ。

 鋭い光を宿した狼のような瞳。

 それは、かつて腹の中を探り合った男のものだった。


 「……斎藤さん?」


 声が漏れた。

 警官は一瞬だけ目を細めたが、何事もなかったように歩き去った。

 人違いか? いや——あの瞳は、間違いようがない。


 啓之助は男の後を追い、足を速めた。

 通りを抜け、裏の細い路地に入る。

 木賃宿や雑貨屋が軒を連ね、陽射しが届かない。

 曲がり角を抜けた瞬間、背後から腕を取られ、壁に押しつけられた。


 「……っ!」

 息が詰まる。


 「斎藤一って誰だ? 俺は藤田五郎なんだけど?」


 低く、乾いた声。

 啓之助はかすかに笑った。

 「私は斎藤さんとしか言ってませんよ? ご丁寧に自己紹介どうも。斎藤一さん」


 藤田五郎と名乗った男は降参だとばかりに盛大なため息をついた。


 「また変名したんですか。……相変わらず変節漢ですね」


 男は吹き出した。

 「ははっ。辛辣だねぇ。んで、わざわざ俺に声をかけた目的はなんだ? 坊ちゃん」


 その笑い方、その声音。

 間違いなかった。——斎藤一だ。


 斎藤は啓之助を締め上げていた手を離した。


 啓之助は苦笑した。

 「も、目的もなにも……ただ旧知に声を掛けただけで……」

 「旧知にねぇ。元新選組だなんてお互い黙ってた方が幸せだろうに」


 「確かに新選組は佐幕派でしたが、それだけで断罪されるなんて事はおかしいです」


 斎藤の表情が一瞬、影を落とした。

 「お前、知らないのか。俺たちが最期まで、新政府軍の連中とどうやり合ってたかを」


 啓之助は言葉を失い、黙ってうつむいた。


 「聞きたきゃ、教えてやるが?」

 「……いえ。離脱した身に、その資格はありません」


 斎藤は鼻で笑った。

 「けど、気になるって顔してるぜ?」


 「……では、どなたが亡くなったのか教えてください。離脱した身でも、死を悼むことはできます」


 斎藤の瞳が、遠い過去を映した。

 「幹部連中は、ほぼ全滅だ。近藤局長は斬首。土方副長は箱館で討死。沖田は病死。永倉、原田は……江戸で離脱後、消息不明だ」


 「そんな……」

 啓之助の声が震えた。

 頭の奥が白くなる。

 (斎藤さん以外……誰も……)


 「お優しいねぇ」

 斎藤はため息を吐いた。

 「君もだいぶ新選組で揉まれてきたってぇのに、まだ労ってくれるのかい」


 「私は……確かに新選組のやり方には納得できませんでした。けど、皆さんが嫌いだったわけじゃない」

 「副長も?」

 斎藤の口元に、意地の悪い笑みが浮かんだ。


 啓之助は少し目を伏せ、静かに答えた。

 「……はい。土方さんには土方さんなりの“正義”があったと思います」


 「正義、ね」

 斎藤は笑いながらも、どこか寂しそうに呟いた。

 「だが、その正義が通じねぇ時代になっちまった。俺たちみたいな人間は、今じゃただの“危ない化石”さ」


 啓之助は言葉を探した。

 「けれど……あなたは生きている。それが、何よりも価値のあることです」

 「生きてる、ねぇ……」

 斎藤は煙草を取り出し、火を点けた。

 煙が夏の空気に溶けていく。

 「生きるってのは、死ぬことより難しいもんだぜ。三浦の坊ちゃん」


 ふたりの間に、蝉の声が降り注ぐ。

 その音は、かつての隊の喧騒に似ていた。


 しばらくして、斎藤が口を開いた。

 「なぁ啓之助。お前……今、何してる?」

 「司法省で判事をしています」

 「ほぉ、剣から法か。変わり身が早ぇな」

 「変わったのは、私ではなく時代です」

 「言うねぇ」


 煙の向こうで、斎藤が薄く笑う。

 「いいか。時代がどう変わっても、因縁ってもんは残るもんだ。俺もお前も精々新選組の因縁に喰われねぇようにしないとな」

 「……因縁」

 「新選組は恨みを買いすぎた。それも特大のな」


 その言葉に、啓之助は息を呑んだ。

 それはまるで、河上彦斎の怨念が再び蘇ったようだった。


 斎藤は背を向けた。

 「ま、俺のことは忘れな。藤田五郎って名前で新政府に飼われてる“牙の抜かれた狼”なんざ、思い出してもロクなことがねぇ」

 「……いえ。あなたが生きていてくれて、私は嬉しいです」

 その言葉に、斎藤の足が一瞬止まった。

 だが、振り返らずに手を軽く上げただけだった。


 「ははっ、お前には敵わねぇな。じゃあな、もう会うこともないだろう」


 夏の光が路地の奥を照らしていた。

 その中で、藤田五郎の背は静かに遠ざかっていく。


 啓之助はしばらくその背を見つめ、胸の奥で呟いた。

 (斎藤さん……あなたの言葉、忘れません。でも、私はもう剣ではなく、法で人を裁くと決めたのです)


 蝉の声が、再び強く鳴いた。

 それは、剣の時代の残響が、夏の空の下で最後に燃える音のようだった。

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