第六十二話 曇天の重み
河上彦斎の処刑から、十日が過ぎた。
冬の東京は、白い息と煤けた空に包まれている。
街路の瓦斯灯が夜毎に灯り、文明開化の明るさを照らしているはずなのに、啓之助の目には、すべてが灰色に見えた。
あの日以来、彼の中で何かが音を立てて崩れていた。
怒りも、憎しみも、正義も、ひとつ残らず削ぎ落とされた。
——ただ、静けさだけが残った。
啓之助は司法省の執務室で机に向かっていた。
分厚い書類の束が積まれ、判決文に目を通すたびに、かつての自分が遠ざかっていくのを感じる。
かつての自分——剣を振るい、道理を叫び、命を賭して“父の仇”を追っていた少年。
その少年の声は、もうどこにも届かなかった。
「……私は、ここまでで何を得たんだろう」
呟きは、紙の上で溶けた。
仇を討てなかった。
しかし、仇を赦したわけでもない。
あの刑場で、彦斎の穏やかな目を見た瞬間に、何かを理解したような気がした。
だが今は、その“何か”の輪郭すら掴めない。
夜、帰り道の川沿いを歩く。
冬の川面に映る瓦斯灯が、風に揺れて震えていた。
ふと立ち止まり、啓之助は水面を覗き込んだ。
そこに映る自分の顔は、まるで他人のようだった。
父譲りの大きな瞳が闇夜に鈍く輝く。
「……父上。私は、正しかったのでしょうか」
答えはない。
川はただ、黙って流れている。
かつてはその流れを“時代”と呼んでいた。
今は、“忘却”と呼ぶのかもしれない。
夜風が吹き抜け、外套の裾がはためく。
河上彦斎の最期の笑顔が頭の中にこびりついて消えない。
その度に啓之助は唇を強く噛む。
(あなたは最期まで、何を想っていたのですか)
(叶わなかった攘夷についてですか。それともあなたの家族の事ですか)
風が答える代わりに、雪が舞った。
白い粒が静かに肩に落ちる。
まるで誰かの手が、そっと肩に触れたようだった。
啓之助はそのまま立ち尽くした。
心の奥底が空っぽなのに、不思議と涙は出なかった。
悲しみよりも、深い静寂だけがあった。
翌朝、役所で同僚が声をかけた。
「三浦君、顔色が悪いな。大丈夫か?」
「……ええ、少し眠れていないだけです」
笑ってみせたが、その笑顔には温度がなかった。
昼休み、ふと机の引き出しを開けると、以前書いた報告書の控えが目に入った。
《被告・河上彦斎 無罪相当》
墨の文字は薄れ、紙は黄ばんでいる。
指でなぞると、胸の奥に重く鈍い痛みが広がった。
「法で救えなかった命……それでも、法を信じるしかないのか」
誰にともなく呟く。
その瞬間、背後の窓の外で風が強く吹き、書類がふわりと舞い上がった。
白い紙片が陽に照らされ、空を漂う。
その一枚が、啓之助の掌に落ちた。
彼はそっと紙を見つめた。
そこには、かすかに残る自分の筆跡——“公平を旨とすべし”の文字。
それを見た瞬間、胸の奥に微かな熱が蘇った。
(そうだ……私は、まだ終わっていない)
(あの人が見れなかった未来を、見届けなきゃいけない)
外では雪が静かに降り続けていた。
その白さは、まるで新しい頁のように、啓之助の心に広がっていった。




