表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
比翼の仇  作者: 烏丸 燈


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/64

第六十二話 曇天の重み

 河上彦斎の処刑から、十日が過ぎた。

 冬の東京は、白い息と煤けた空に包まれている。

 街路の瓦斯灯が夜毎に灯り、文明開化の明るさを照らしているはずなのに、啓之助の目には、すべてが灰色に見えた。


 あの日以来、彼の中で何かが音を立てて崩れていた。

 怒りも、憎しみも、正義も、ひとつ残らず削ぎ落とされた。

 ——ただ、静けさだけが残った。


 啓之助は司法省の執務室で机に向かっていた。

 分厚い書類の束が積まれ、判決文に目を通すたびに、かつての自分が遠ざかっていくのを感じる。

 かつての自分——剣を振るい、道理を叫び、命を賭して“父の仇”を追っていた少年。

 その少年の声は、もうどこにも届かなかった。


 「……私は、ここまでで何を得たんだろう」

 呟きは、紙の上で溶けた。


 仇を討てなかった。

 しかし、仇を赦したわけでもない。

 あの刑場で、彦斎の穏やかな目を見た瞬間に、何かを理解したような気がした。

 だが今は、その“何か”の輪郭すら掴めない。




 夜、帰り道の川沿いを歩く。

 冬の川面に映る瓦斯灯が、風に揺れて震えていた。

 ふと立ち止まり、啓之助は水面を覗き込んだ。

 そこに映る自分の顔は、まるで他人のようだった。

 父譲りの大きな瞳が闇夜に鈍く輝く。

 「……父上。私は、正しかったのでしょうか」

 答えはない。

 川はただ、黙って流れている。


 かつてはその流れを“時代”と呼んでいた。

 今は、“忘却”と呼ぶのかもしれない。


 夜風が吹き抜け、外套の裾がはためく。


 河上彦斎の最期の笑顔が頭の中にこびりついて消えない。

 その度に啓之助は唇を強く噛む。


 (あなたは最期まで、何を想っていたのですか)

 (叶わなかった攘夷についてですか。それともあなたの家族の事ですか)


 風が答える代わりに、雪が舞った。

 白い粒が静かに肩に落ちる。

 まるで誰かの手が、そっと肩に触れたようだった。


 啓之助はそのまま立ち尽くした。

 心の奥底が空っぽなのに、不思議と涙は出なかった。

 悲しみよりも、深い静寂だけがあった。




 翌朝、役所で同僚が声をかけた。

 「三浦君、顔色が悪いな。大丈夫か?」

 「……ええ、少し眠れていないだけです」

 笑ってみせたが、その笑顔には温度がなかった。


 昼休み、ふと机の引き出しを開けると、以前書いた報告書の控えが目に入った。

 《被告・河上彦斎 無罪相当》

 墨の文字は薄れ、紙は黄ばんでいる。

 指でなぞると、胸の奥に重く鈍い痛みが広がった。


 「法で救えなかった命……それでも、法を信じるしかないのか」

 誰にともなく呟く。

 その瞬間、背後の窓の外で風が強く吹き、書類がふわりと舞い上がった。

 白い紙片が陽に照らされ、空を漂う。

 その一枚が、啓之助の掌に落ちた。


 彼はそっと紙を見つめた。

 そこには、かすかに残る自分の筆跡——“公平を旨とすべし”の文字。

 それを見た瞬間、胸の奥に微かな熱が蘇った。


 (そうだ……私は、まだ終わっていない)

 (あの人が見れなかった未来を、見届けなきゃいけない)


 外では雪が静かに降り続けていた。

 その白さは、まるで新しい頁のように、啓之助の心に広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ