第六十一話 赦しの朝
明治四年十二月四日。
木枯らしが冷たい日だった。
冬の曇天が空一面を覆い、街の屋根を灰色に染めている。
風が吹くたび、瓦の隙間から笛のような音が鳴った。
啓之助は黒い外套の襟を立て、深々と帽子を被った。
息を吐くと、白い煙が揺らめき、すぐに風に攫われていく。
司法省を出たときから、胸の奥に冷たい鉛のような重みがあった。
(こんなことしても、何にもならないことは分かっている。それでも——)
(私は彼に、一目でいい。会いたい。ただそれだけだ)
自分でも理由が分からなかった。
それは郷愁か、後悔か。
あるいは、彼を裁ききれなかった過去への贖罪か。
歩を進めるたびに、靴底に凍りついた霜が音を立てた。
刑場に近づくにつれて、人のざわめきが増していく。
物見高い群衆が、まるで見世物小屋のように集まり、寒さを忘れたように口々に噂していた。
「人斬り彦斎の最期だってよ」
「昔は京で百人斬ったって話だ」
「おお、怖いねぇ。斬首で安心だよ」
その言葉に、啓之助の拳が震える。
——あの人は、ただの人斬りではない。
彼には彼の信念があって人を斬っていた。
だが、今それを叫んでも意味はない。
竹格子の柵の隙間から中を覗く。
そこに、彼はいた。
河上彦斎。
長く艶やかだった黒髪は、斬首の邪魔になるのか、無造作にざんばらへと刈られている。
粗末な白の着流しを纏い、縄で縛られたその姿は、あまりにも静かだった。
もはや“人斬り”の気配はなく、僧のような静寂さをまとっている。
(……あの日のままだ)
竹藪の中で向かい合ったときのように、彼の眼差しはまっすぐだった。
寒風の中でも微動だにせず、まるでこの運命を受け入れているような静けさ。
その時、彦斎がゆっくりと顔を上げた。
その瞳が啓之助を見つけた。
竹格子越しに、確かに目が合った。
啓之助は息を呑んだ。
凍りついた心臓が、再び鼓動を打つ。
彦斎は、微笑んだ。
優しく、どこか懐かしげに。
その笑みは、若き日のあの竹藪の中で見た穏やかな光そのものだった。
(なぜ、そんな顔を……)
何も言葉はなかった。
だが、そのわずかな表情の変化が、啓之助の胸に突き刺さる。
視界が滲む。
風が目にしみたのか、涙なのか分からない。
啓之助は手すりを握りしめた。
(どうしてあなたは、そんな目で私を見るんですか)
(私はあなたを憎み、追い、そして……救えなかったのに)
その思いが言葉になる前に、刑場の奥で号令が響いた。
「——介錯!」
瞬間、白刃が光を放った。
空気が凍り、鳥の羽音一つしなかった。
何が起きたのか、啓之助にはよく分からなかった。
ただ、風が一瞬止み、空が静まり返ったのを覚えている。
頬を撫でる冷たい空気の中に、血の匂いはなかった。
——あるのは、淡い香のような静けさだけ。
気づけば、啓之助は柵にもたれかかっていた。
足が震え、力が抜けて立っていられなかった。
群衆がざわめき、遠くで鐘の音が鳴った。
(終わったのか……)
(これで、本当に終わったのか)
彼はただ、空を仰いだ。
灰色の雲の隙間から、わずかに一条の光が差していた。
啓之助の瞳が潤み、冬の日差しが滲んでいった。
——河上彦斎は、最後まで自らの信念を曲げなかった。
そして啓之助もまた、彼を裁かなかった。
血ではなく、法でもなく、ただ“人として”見届けた。
それが、彼の選んだ最初の裁きだった。
その後、何をどうして帰ったのか、啓之助は覚えていない。
ただ、手の中に残っていたのは、竹格子を握ったときに刺さった小さな棘の痛みだけだった。
その痛みが、現実の印のように思えた。
(父上……ようやく、ようやく全て終わりました)
——誰も斬らずに。誰も憎まずに。
木枯らしが吹き抜け、遠くで雪がちらついた。
冬の空は静かで、どこまでも高かった。




