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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第六十話 法を扱う者

 明治四年十月、秋風が東京の街を吹き抜けていた。

 文明開化の波が押し寄せ、洋装の役人が闊歩し、瓦斯灯が夜の街を淡く照らす。

 その光の下を、三浦啓之助は歩いていた。

 慶應義塾で三年学び退塾した。

 今は伯父の勝海舟の紹介で新設された司法省に勤め、若くして判事補として法廷に立つ身となっていた。


 法の条文を前に、彼はいつも思う。

 かつて剣を握っていた自分が、今こうして“人を裁く立場”にいることの奇妙さを。

 血で果たせなかった正義を、今は紙と印章で担っている。

 それが本当に正義なのか、時折胸の奥に問いが湧く。

 だが——あの日、福澤が言った言葉が、今も心に灯のように残っている。

 “法とは、情を抑えるための知恵だ”




 その日、司法省の廊下に緊張した空気が漂っていた。

 同僚が密やかに囁き合う声が耳に入る。

 「……あの“人斬り彦斎”が、罪人としてついに東京へ送られたらしいぜ」

 啓之助の足が止まった。

 喉の奥で、乾いた音が鳴る。


 河上彦斎——

 あの夜、父の仇として相対し、自分を見逃した男。

 その名を、久方ぶりに耳にした。

 全身の鳥肌が止まらない。それは恐怖ではない。興奮だ。


 同僚が続ける。

 「大村益次郎の暗殺、それに広沢真臣の暗殺の件にも関わっていたらしい。まさに攘夷の亡霊だな」

 その言葉が、鋭い針のように胸を刺した。

 (……彦斎が、倒幕派……それも長州藩の方の暗殺を?)

 (新選組にいた頃、彼の事について調べていたが、彼は長州藩とは懇意にしていた筈だ。長州藩の英傑を暗殺するとは考えにくい)


 啓之助の掌が震える。

 判事としての自分が、その名を聞いて動揺している。

 ——それこそが、かつての自分への逆戻りではないか。




 夜、執務室の明かりの下で啓之助は机に額を押しつけた。

 「……違う。今の私は剣ではなく、法で裁く者だ」

 その呟きは、誰に聞かせるでもなく、しかし確かな決意の声だった。




 翌朝、啓之助は役所の記録庫に足を運んだ。

 そこには、河上彦斎の取り調べ書、尋問記録、証言集が積まれていた。

 頁をめくるたび、紙の擦れる音がやけに冷たく響く。


 (彼に……もう一度会いたいと思うのは、変だろうか)


 啓之助の脳内に初めて会ったあの日の情景が蘇る。

 強くなりたいと必死だった自分に刀の指南をしてくれた柔和な眼差し。


 (もしも、また彼に会えたなら……)


 啓之助は頭を振った。

 今はそんな夢物語を考えている場合ではない。

 彼の罪について調べることが先決だ。


 啓之助は資料を捲った。

 「大村益次郎を斬ったのは、京都の士族・石田某ら……彦斎は現場に居なかった」

 「広沢真臣の件も同様。彦斎はその時、熊本にいたという」

 記録は淡々と、しかし確かに“無実”を示していた。

 それでも——“攘夷の急先鋒”であり、“人斬り彦斎”という名が、彼の命を今も締め上げていた。

 要するに、穏便に開国をしたい新政府軍にとって、未だに異国排斥を掲げる河上彦斎は邪魔者だということだ。


 「……証拠がないのに、罪人扱いか」

 啓之助は唇を噛む。

 思い出すのは、あの夜の竹藪で見た彦斎の瞳。

 剣を振るいながらも、どこか哀しみを湛えた瞳。

 あれは狂気ではなく、信念だった。




 啓之助はさらに裏を取った。

 密かに熊本藩士の元攘夷志士を訪ね、彦斎の当時の動向を聞いた。

 「彦斎殿はな、確かに攘夷を捨てておらん。だが今では暗殺などはせん。実際、明治以降は塾を始めて学を教える立場になっていたからな」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが弾けた。


 (そうか。彼も剣を納めたのか。剣を納め、学を広めようとした)


 啓之助は胸は高鳴る。より彦斎に会いたくなってしまった。




 司法省に戻ると、上司の判事が声をかけてきた。

 「三浦君、例の人斬り彦斎の件調べてるみたいだな。どう見る?」

 啓之助は一瞬目を伏せ、そして静かに答えた。

 「……証拠がありません。罪を立証する根拠は一つもない」

 「しかし、彼は危険思想の持ち主だ。攘夷をいまだ唱え、政府に反感を抱いている。放っておけん」

 「思想を罪とするなら、それは法ではなく恐怖です」

 啓之助の声は震えていなかった。

 静かで、しかし鋼のように強かった。


 「彼を処断するのは、明治政府の恐れを守るためですか? それとも、法の正義を守るためですか?」

 沈黙が落ちる。

 上司は息を吐き、やがて小さく笑った。

 「……若いな、三浦君。だが嫌いじゃない」


 その夜、啓之助は机に向かい、報告書をしたためた。

 その筆は確かで、迷いがなかった。


 > 『被告・河上彦斎、罪状を裏付ける証拠一切なし。

 >  攘夷思想を理由に罪に問うは、法の理念に反する。

 >  私怨を排し、公平を旨とすべし。

 >  ——無罪相当。』


 筆を置いた瞬間、肩の力が抜けた。

 窓の外では、秋雨が降っている。

 その雨音はまるで、遠い昔、血を洗い流すような静けさを持っていた。


 (父上……私はようやく、剣を納めました)

 (そして今、法という剣を抜きました)




 その後、その報告書は司法省上層部を通って明治政府に確かに届けられた筈だが、何も返答が無かった。


 (分かっていた。司法省も出来たばかりで法の整備もまだまだなこんな状況では、明治政府上官の方々に私達の意見など聞き入れられない事を)




 それから、数カ月後


 明治四年十二月一日

 河上彦斎、斬首が確定した。


 執行は三日後。


 啓之助は手に持つ罪人処刑日程の紙を握り潰し、唇を噛んだ。

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