第六話 震える坊ちゃん
巡察を終えて屯所に戻った頃には、夜明けが近づいていた。
鳥の声がかすかに響くなか、三浦啓之助はまだ血の鉄の匂いを鼻の奥にまとわりつかせていた。胃の底は重く、歩く足は鉛のようだった。
「おい坊ちゃん、まだ顔色が悪ぃな」
永倉新八が大声で笑いながら肩を叩いた。大柄な体に似合わず声は陽気だが、今夜の彼の剣は迷いなく浪士を斬り伏せた。
「俺の剣の冴えは悪くなかったぜ。……まあ、見物するにはきつかったか?」
冗談めかす声に、啓之助は口を開けず、ただうつむいた。
「血を見るのは、初めてなんだろ」
沖田総司が優しい声音で言った。童顔に浮かぶ笑みは柔らかい。だが、その竹刀が幾度となく啓之助を打ち据えたことを思い出し、彼は余計に言葉を詰まらせた。
「気にすることはないよ。最初から笑って斬れる奴のほうがおかしいんだ」
「甘ぇこと言うな、総司」
土方歳三の声が鋭く落ちた。
副長の浅葱の羽織は血煙を浴びたのか、袖に赤い斑が乾いて残っている。彼は冷ややかな目で啓之助を見据えた。
「俺たちは会津の預かりだ。治安を守るのが務めだ。斬ることに迷えば、自分だけじゃなく仲間も死ぬ。忘れるな」
その言葉に、啓之助は背筋を震わせた。
「……はい」
掠れた声で応じると、土方は気に入らなさそうにわずかに鼻を鳴らした。
「ま、いいとこの坊ちゃんだからな」
原田左之助が酒臭い息で笑い、いつの間にか持ってきた徳利を掲げた。
「血に慣れるまでには時間がかかるさ。気にすんな。生き残りゃ、そのうち慣れる」
藤堂平助は苦笑しながら首を振った。
「慣れないほうがいいと思うけどね。本当は」
そのつぶやきに、誰も応じなかった。
庭先で煙管をふかしていた斎藤一が、煙の向こうから声をかけた。
「坊ちゃん、小鹿のように震えてるな。それじゃあ斬られた浪士の方が度胸あるぜ」
挑発するような調子に、啓之助は言葉を失った。斎藤はくつくつと笑い、煙を吐いた。
「でもまあ……正直でいい。怖ぇもんは怖ぇって顔に出せる奴は、無茶しねぇから意外としぶとく長生きするもんさ」
言葉の刃が交錯する中、山南敬助が一歩前に出た。
「三浦君」
穏やかな声が闇をほぐす。白い顔に優しい笑みを浮かべ、彼は啓之助の肩に軽く手を置いた。
「昨夜のことは忘れられないだろう。でも、それでいい。血に慣れすぎた者は、志を見失う。君は君のままでいい」
啓之助はその言葉に胸を突かれた。
慣れろと言う者、忘れるなと叱る者、励ます者、嘲る者。
同じ剣を取る新選組でありながら、それぞれの言葉はまるで違う。
「……私は」
かすかに声を漏らしたが、その先は言葉にならなかった。
近藤勇が襖を開けて現れたのは、その時だった。
素朴な顔立ちに人懐こい笑みを浮かべ、啓之助を真っ直ぐに見て言った。
「三浦君。初めての巡察、よく頑張ったな。あんな場に立って、逃げ出さずに戻ってきただけでも立派だ」
彼の言葉は、啓之助の胸に温かく染み入った。
「……ありがとうございます」
震える声で頭を下げると、近藤はにこやかにうなずいた。
「剣は人を斬るためだけじゃない。守るための剣でもある。君のお父上も、きっとそう考えていたはずだ」
啓之助の目に熱いものがこみ上げた。だが唇を固く結び、涙は飲み込んだ。
こうして「震える坊ちゃん」は、壬生狼たちの中で一歩を踏み出したのであった。




