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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第五十九話 新たな道標

 夏の光が、慶應義塾の白壁を眩しく照らしていた。

 芝の街は戦の影を脱しつつあり、子どもたちの声がどこか安堵を運んでいた。

 だが啓之助の胸には、まだ血の残響が消えていなかった。


 あの夜の炎、あの叫び、あの死。

 父の最期も、新選組の人たちの死も、そして河上彦斎の背中も——すべてが、胸の奥で沈黙のまま居座っている。

 (あの人を斬れなかった。けれど、斬らなかったことで……何かが始まった気がする)


 その感覚の正体を確かめたくて、啓之助は福澤諭吉の講義を前よりも貪るように聴いた。

 「法とは何か」「正義とは何によって成り立つか」「人は何によって守られるか」——

 黒板に刻まれるその言葉一つひとつが、まるで心の中の黒い泥を少しずつ浄化していくようだった。


 ある日、講義が終わった後、啓之助は福澤に声をかけた。

 「福……ゆっきー先生。……“法”というのは、やはり人を縛るものでしょうか」

 諭吉は扇子で風を送りながら、にやりと笑った。

 「縛る? いや、守るための鎖だよ。人を縛るようでいて、実は暴力から人を救うんだ」

 「暴力から……」

 「そう。昔は剣を持つ者が正義を名乗れた。だが剣は、振るうたびに誰かの血を呼ぶ。法は違う。人の知恵で人を裁く。流れるのは血じゃなく、言葉と判断だ」


 啓之助は息を呑んだ。

 思い出すのは、河上彦斎の瞳。

 “ただ、殺したくないからだ”——

 あの時、あの人はすでに自分より先に“血ではない正義”を選んでいたのかもしれない。


 「……先生。もし仇を討つ代わりに、“法”が仇を裁くなら……それは正義になるのでしょうか」

 啓之助の問いに、福澤はわずかに目を細めた。

 「正義はね、ひとりで決めるものじゃない。社会全体で築くものだ。だからこそ法がある。

 仇討ちはひとりの怒りにすぎない。だが法は、すべての怒りを束ねて秩序に変える」


 静かな声が、刀のように胸を貫いた。

 (ああ……そうか。父を討つために握ってきた剣は、最初から間違っていたんだ)

 心の奥で、長く閉ざされていた扉が、音を立てて開いていく。




 その夜、啓之助は独り、蝋燭の灯りのもとで福澤から借りた書物を開いた。

 『ウィリアム・ブラックストン法学講義』——初めて目にする西洋の法律書だった。

 福沢お手製の英和辞書を片手に少しずつ言葉を読み解いた。“正義は社会契約の上に立つ”という一節を見つけ、啓之助はしばらくその頁から目を離せなかった。


 (正義とは……契約。個の怒りではなく、皆の約束。……それが法か)

 指先で紙を撫でる。

 その感触は、かつて刀の柄を握った時よりも、確かな力を感じた。




 翌日。講堂の隅で、啓之助は福澤に告げた。

 「先生。私は……法を学びたいと思います」

 「おや、急だね」

 「いえ……ずっと考えていました。剣では何も成せませんでした。だから今度は、言葉で悪を制し、人を守りたい。私のように間違った仇討ちを志す人を止めたいのです」

 その言葉に、福澤は笑みを浮かべ、静かに頷いた。

 「いい顔をしているよ、三浦君。剣の時代に生き、血を見た人間が法を志す——それが本当の文明開化だ」


 外では、夏の雨が静かに降り始めていた。

 軒のしずくが地に落ちる音を聞きながら、啓之助は心の中で小さく呟いた。


 (父上……ようやく分かりました。私がすべきことが)


 刀の代わりに、法の書を握る手が震えた。

 だがその震えは、恐れではなく、新しい時代への決意の鼓動だった。

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