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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第五十八話 静かな戦場

 慶応四年五月十五日。

 昼下がりの空が、鈍い硝煙の色を帯びていた。

 遠く上野の方角から、どん、と大地を揺らす音が響く。

 黒煙が、春霞の空にゆらゆらと立ちのぼっていくのが見えた。


 ——戦だ。

 旧幕府軍と新政府軍がぶつかっている。

 街の人々はざわめき、不安の声が路地を駆け抜ける。

 だが、芝新銭座にある慶應義塾では、福澤諭吉の講義がいつも通り行われていた。


 「さて、諸君。今日の議題は“文明”と“野蛮”の境目についてだ」

 諭吉は黒板代わりの板にチョークで字を走らせ、軽快な口調で話を進める。

 だが、その声と共に遠雷のような戦の轟きが混じって聞こえた。


 教室の空気は、微妙な緊張に包まれていた。

 窓の外では遠くで大砲の音が鳴り、鳥が一斉に飛び立つ。

 それでも塾生たちは誰一人として席を立たない。

 ——ここは知の砦。

 剣の代わりに言葉で戦う者たちの学び舎だった。


 だが、啓之助だけは、心ここにあらずだった。

 黒板の文字を追いながらも、頭の奥では別の光景が渦巻いていた。


 (上野……)

 (あの戦に、新選組の誰かがいるかもしれない)


 近藤勇。土方歳三。永倉新八。原田左之助。斎藤一。

 かつて同じ釜の飯を食い、行動を共にした者達。

 彼らが今、どこで何をしているのか。

 想像するたびに、胸が締めつけられる。


 (斬り合っているのか。血を流しているのか。

 それとも、もう……)


 啓之助は筆を持つ手を止めた。

 心臓が早鐘のように鳴り、息が詰まりそうになる。


 「——三浦君」

 諭吉の声が飛んだ。

 「君、上の空だね」

 啓之助ははっとして頭を下げた。

 「申し訳ありません……」

 諭吉はそれ以上叱ることもなく、軽く頷いて講義を続けた。

 だが、啓之助の耳にはもう、何も入らなかった。




 ——授業が終わると、諭吉は静かに啓之助を呼び止めた。


 「君、ちょっと来なさい」


 啓之助は廊下を歩き、諭吉の私室に入った。

 部屋には茶の香りと紙の匂いが満ちている。

 外の喧騒が、障子の向こうで微かに鳴っていた。


 「君は元、新選組の隊士だったね」

 諭吉は湯呑に茶を入れながら言った。

 「はい……」

 「上野では旧幕府軍が戦っている。——彼らと共に戦いたかったかい?」


 啓之助は息を呑んだ。

 言葉が喉に詰まる。

 しばらく沈黙したのち、絞り出すように答えた。


 「いえ……。でも、知っている方々が……戦で亡くなっているかもしれないと思うと……やりきれなくて……」


 諭吉は目を細めた。

 その眼差しには、叱責でも哀れみでもない、ただ静かな理解があった。


 「優しいね。——でもね、三浦君。彼らはその優しさを、もう必要としていないと思うよ」

 「……え?」

 「彼らは己を剣とすると決めた。死ぬ場所を選んで、そこに立っている。

 それが武士ってやつの生き方さ。君のように迷い、学ぶ時間を持たなかったんだ」


 啓之助は唇を噛んだ。

 「先生……私は、あの人たちが嫌いじゃありません。隊を維持するやり方は理解できませんでしたが、憎めません」

 「それでいい」

 諭吉はゆっくりと頷いた。

 「憎しみを持たずに別れられるのは、いい別れ方だ。

 だが——彼らの時代はもう終わった。

 これからは、剣ではなく言葉で国を守る者の時代だよ」


 その声は淡々としていたが、どこか祈りのような響きがあった。


 「君が新選組を抜けたのは、臆病だからじゃない。

 時代を別の方法で動かしたかったからだ。

 誰かが血を流すのを止めなければ、この国はずっと地獄のままだ。

 ……だから、君はここにいる」


 啓之助は顔を上げた。

 窓の外には、遠く煙がたなびいている。

 その煙の向こうに、あの剣士たちが散っていく光景を想像した。

 斎藤が索敵をし、永倉が駆け抜け、原田が叫び、近藤が指示し、土方がただ前を向いて進む。


 (皆、まだ戦っているのか……)


 「——彼らの死は、決して無駄にはならない」

 諭吉の声が、静かに啓之助の胸に染みていく。

 「血が流れ尽くしたその後に、ようやく“言葉”が通る。

 それが新しい時代だ。剣の時代の後に来る、もう一つの戦場だよ」


 啓之助は拳を握った。

 血ではなく、言葉で戦う。

 それが自分に託された新しい“誠”の形なのだと、初めて理解した。


 (辞めよう。彼らの事を考えるのは。道は違えた。彼らには彼らの道。私は目の前の事に励むだけだ)


 啓之助は複雑な気持ちを噛み殺す様に唇を噛んだ。

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