第五十七話 道理の剣
春が過ぎ、夏の風が芝新銭座の街に湿り気を運んでいた。
慶應義塾の講堂では、昼下がりの熱気の中、学生たちが議論に夢中になっている。
「国家とは何か」「自由とは」「法とは」。
そのどれもが、かつて啓之助が生きた“剣の世界”には存在しなかった言葉だった。
ある日、講義を終えた啓之助の肩を、福澤が軽く叩いた。
「三浦君。ちょっといいかね」
「はい、先生」
「この前の議論で、君は“仇討ちは武士の義”と言ったね?」
「……はい。武士たるもの恩義に報いるべきだと」
諭吉はふっと口角を上げ、机の上に一枚の白紙を置いた。
「では君、その考えを文章にしてみなさい。——“仇討ちと正義”について」
「私が、ですか?」
「そう。君のように血を知る人間の言葉には、机上の空論にはない重みがある。書いてみなさい、自分の剣でなく筆で戦うつもりで」
数日間、啓之助は眠れなかった。
筆を握っても、脳裏にはあの夜の血が蘇る。
父が殺された日、山南が切腹した時、伊東や藤堂が斬られた夜、そして河上彦斎の言葉。
「……ただ、殺したくないからだ」
——あれは、どんな意味の言葉だったのか。
“正義”とは、人を殺す理由なのか。それとも、生かす覚悟なのか。
啓之助は何度も筆を走らせ、書いては破り、破っては書いた。
一週間後。
原稿を手にした啓之助は、諭吉のもとを訪れた。
「ふむ……読んでいいかね?」
「はい」
諭吉は静かに目を通し、しばらく無言だった。
やがて、穏やかな声で言った。
「なるほど。君の論は“仇討ちは正義の回復”というものか」
「はい。悪を放置することは、父の名を汚すと思っていました」
「——だがね、三浦君」
諭吉の瞳が、ふっと鋭く光った。
「これからは法律の時代だ。身分や性別で刑罰が決まる不平等は、もう終わりを告げる」
声には、揺るぎない信念があった。
「法治を守るにあたって、仇討ちは最悪の私刑だ。どんな罪人も平等な条件で罰を受けるべき。好き勝手に素人が罰を下せば、全ては混沌と化す」
その言葉は、静かな刃のように啓之助の胸を切り裂いた。
「……しかし、先生。人の情というものが——」
「情で裁けば、いつかまた誰かが泣く。情が秩序を壊すんだ。だからこそ“道理”が要る。法とは、情を抑えるための知恵だよ」
啓之助は、息を呑んだ。
——道理で裁く。
その発想は、かつての自分には到底なかったものだった。
諭吉は机に手を置き、少し柔らかい声で続けた。
「君の父上は、学問をもって時代を変えようとした人だ。君はその血を引いている。剣を置いたのは、決して敗北ではない。次の戦の準備だよ」
「……次の、戦……」
「そうだ。今度は血を流さずに戦え。道理をもって、法をもって。時代の不平を斬るんだ」
言葉の一つ一つが、心に灯をともすようだった。
剣で果たせなかった正義を、今度は言葉で果たす。
啓之助の胸の奥で、静かに何かが形を変えていくのを感じた。
夜、寮の灯の下で啓之助は再び筆を取った。
書きかけの論文の題を、そっと書き直す。
『私情と法の交わるところに正義はあるか』
墨が乾く音が、夜の静けさに溶けていく。
仇を討てなかった自分が、今度は“道理”をもって“仇討ち”そのものを討つ。
その矛盾が、奇妙に清々しかった。
——父上、私は今ようやく、あなたの死の意味に触れた気がします。
筆を置いた啓之助は、静かに目を閉じた。
夜風が窓から入り、灯火を揺らす。
その光はもう、かつての血の赤ではなかった。
道理と希望の、柔らかな光だった。




