第五十六話 春光の章
慶応四年四月
春風が芝新銭座の坂を渡っていく。
土の匂いと墨の香が混ざり合い、街の喧騒の中に新しい季節の音がした。
啓之助は、筆を握る指先を見つめた。かつて刀を握っていた手。血と震えを覚えた指が、今は紙の上に静かに触れている。
「刀と筆、得物を持って戦うことは似ているようで……全く違うな……」
ふと漏らした言葉に、隣の席の若者が振り返った。
「何か言いましたか、三浦さん?」
「いや、独り言です」
そう答えて、啓之助は微笑んだ。
慶應義塾での暮らしは、啓之助にとってまるで別世界だった。
朝は鐘の音で始まり、学生たちは互いに議論を交わす。
「自由とは何か」「文明とは何か」——そんな言葉が毎日飛び交っていた。
それは、血を流さずに人がぶつかり合う場所。
啓之助にとって初めての「戦場」だった。
講義のあと、諭吉はよく学生たちを集めて語った。
「国を変えるのに重要な事は剣で戦う事じゃない。考えることだ。誰もが自分の頭で考え、立って生きる。——それが“文明”というものだ」
諭吉の声は軽やかだったが、底には確かな熱があった。
その熱が、啓之助の胸の奥に静かに灯をともしていった。
夜、塾の寮の小さな部屋で、啓之助は筆を取った。
福沢諭吉の言葉を反芻して書いてみる。
筆先が震えた。
血で汚れた記憶が、紙の白に吸い込まれていくようだった。
“斬る”ことでは何も証明できなかった自分が、“書く”ことで何かを残せる気がした。
その違いが、心を救っていった。
日々の中で、啓之助は少しずつ笑うようになった。
塾生たちの冗談に笑い、議論に熱を上げ、失敗をしても恥じることがなくなった。
「三浦君は普段大人しいのに、論じる時はまるで刀を振るうみたいに話すな」
「それが僕の癖なんです」
「いいじゃないか、剣の言葉だ!」
笑い声が木の壁を揺らす。
その音が、かつての刀のぶつかる音を遠くへ追いやっていった。
桜が満開を迎えた頃、啓之助は塾の庭に立っていた。
風が花びらを散らし、その一枚が頬に触れた瞬間、なぜか涙がこぼれた。
あの京の夜の、鉄の匂いが、やっと風に溶けた気がした。
啓之助は空を見上げた。
そこには、春の光があった。
「父上……私は、生きています。まだ弱いけれど、ちゃんと、生きています」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、風に乗ってどこまでも高く昇っていった。
そのとき、背後から声がした。
「おい、三浦君。福……ゆっきー先生が呼んでるぞ。新しい講義の準備だとさ!」
仲間の声に振り返ると、啓之助は小さく笑った。
「今行くよ」
足元の桜の花びらを踏みしめながら、啓之助は塾舎へと歩き出した。
筆と紙と、議論の声が待つ場所へ。
彼の歩みはもう、かつての剣士のそれではなかった。
言葉で斬り、理で立ち、未来を描く人間の歩みだった。
——剣が血を断ち、言葉が時を繋ぐ。
その先に続く道の名を、啓之助はまだ知らない。
けれど、春の光の中で、確かにそれを歩き始めていた。




