第五十五話 灯火の道へ
夜明けの空が、淡く灰色に染まっていく。
冷たい露が草の葉を濡らし、竹藪の中に立ち尽くす啓之助の頬を刺した。
握ったままの刀は、わずかに震えている。
血の匂いは、すでに風に流れて薄れていた。
河上彦斎——父の仇。
斬るべき相手は、確かに目の前にいた。
だが、あの男は啓之助を殺さなかった。
「……ただ、殺したくないからだ」
そう告げて、背を向けた。
その一言が、何よりも重かった。
斬られたかった。せめて、自分の中で終わらせたかった。
なのに、命を残されてしまった。
(私は……何も果たせなかった)
(帰ろう。江戸へ。もう京にいる意味もない)
啓之助は京にいたくなかった。この地で死んだ父の魂に引っ張られそうな気がしたからだ。
京を離れ、江戸へ向かう旅の道中、啓之助は何度も立ち止まった。
山の夜風が頬を打ち、木々の間から見える星空が、やけに遠く見えた。
「私は……何一つ成せなかった……。父上、私はどうしたら良かったのですか」
答えは風の音に紛れて、どこにもなかった。
江戸に戻った啓之助が勝海舟邸を訪れたのは、冬の終わりだった。
庭の池は氷の膜はなくなり、桜の蕾も膨らんできた。
門番に名を告げると、すぐに通された。
——伯父は、待っていた。
海舟は、啓之助を見やると日に焼けた顔でくしゃりと笑い、大きな手の中にあった湯呑を置いた。
その傍らには、近藤勇からの書状が開かれている。
「啓之助。お前が帰る頃だと思っていたよ」
低く穏やかな声に、啓之助の胸が締めつけられる。
「……伯父上」
「近藤から手紙が来た。新選組を抜けたそうだな」
啓之助は顔を伏せた。
「……情けない結果です。剣の道では、何も成し得ませんでした」
海舟はつとめて静かに言った。
「いいんだよ。あの男も書いていた。三浦啓之助は剣の才より、言葉の才がある。剣で人を斬るより、言葉をもって人を動かす器だと」
啓之助は、顔を上げた。
近藤さんが、そんなことを——?
海舟は続けた。
「俺もそう思う。佐久間象山の息子が、ただ剣を振り回して終わるような器じゃねぇ」
陽の光が、海舟の瞳の奥で反射した。
「お前の父が本当に望んだのは、敵を討つことじゃない。理不尽に殺し合うこの国を、少しでもまとめて賢くすることだ。あいつはそれを命を賭けて説いた。だから、お前もそれを継げ。そしたら象山の奴も両手挙げて喜ぶだろうに」
啓之助の喉が熱くなり、視界が滲んだ。
「ですが、私は……父上の仇さえ討てませんでした。何も成せなかったのです」
「馬鹿を言うな」
海舟の声は厳しかった。
「討つだの討たれるだの、そんな時代を終わらせるために、象山は死んだんだ」
「……!」
言葉が胸に突き刺さる。
啓之助はただ俯き、拳を握った。
しばしの沈黙ののち、海舟は柔らかく笑った。
「今の時代、剣よりも筆の方がよほど人を救う。お前に紹介したい人物がいる。ちと変わり者だが、才覚のある奴だ」
数日後、海舟に連れられて訪れたのは、芝新銭座の一角にある学舎だった。
木造の門の上には『慶應義塾』の看板。
中から笑い声が響き、若者たちが机を並べて議論を交わしていた。
海舟が声をかける。
「おい、諭吉!」
「おお、海舟さんか!渡米以来ですな!」
現れたのは、軽やかに歩く痩せた男。
長い髪を乱雑にまとめて、西洋のシャツの上に着物を着ていた。
溌剌と笑う瞳は、どこか少年のようだった。
「私は福澤諭吉。福澤先生なんて堅苦しいから気軽に『ゆっきー』って呼んでね」
啓之助は気さく過ぎる相手に面食らってしまった。
「ゆっ……?ええと……そんな……」
「まぁまぁ、緊張しなさんな。剣を捨てたって? いいじゃないか。これからの戦は頭でするもんだ」
そう言って諭吉は、軽く背中を叩いた。
「君の目、まるで戦場にいる兵のようだ。血を沢山見てきたんだね。だが、今日からは戦い方を変えればいい。知恵の剣で世の中を切り拓くんだ」
その言葉に、啓之助は初めて心が少し軽くなった気がした。
——だが、その場の空気には、もうひとつの緊張が流れていた。
海舟と諭吉、ふたりの秀才が向かい合った瞬間、微かな火花が散った。
「しっかしまぁ、ここも随分と賑やかだな」
海舟が笑みを浮かべる。
「お陰様で。あなたの“実地主義”ほど勇ましくはないが、机の上からでも国は変えられると思ってる」
諭吉は穏やかに笑いながらも、眼差しには冷ややかな光を宿していた。
海舟は片眉を上げた。
「言葉は重要だがそれだけでは人は救えねぇよ、諭吉。結局、思想の上でも政の上でも、血を流すくらいの覚悟がなきゃ世は動かねぇ」
「だからこそ、私はその“血の覚悟”を人に持たせない世を作りたいのさ」
ふたりの言葉が、焚き火のように静かに熱を帯びていく。
啓之助はその間に立ち尽くし、息を詰めた。
伯父の背中からは風のような覇気が、福澤の眼差しからは鋭い理性の光が、それぞれに漂っている。
彼らは互いに認め合いながらも、決して交わらない——水と油のように。
やがて、海舟が口元に笑みを浮かべた。
「ま、諭吉。こいつをよろしく頼む。お前の言うような言葉で人を動かせる男にしてやってくれ」
諭吉も笑みを返す。
「ええ。あなたの甥御さんなら、きっと立派な“独立自尊”の人間になりますよ」
その言葉には、皮肉と敬意が絶妙に入り混じっていた。
夕刻、塾舎の灯がひとつ、またひとつと灯る。
その橙色の光を見つめながら、啓之助はそっと呟いた。
「言葉の……戦い……」
冬の空に、息が白く昇った。
その先に広がる未来は、まだ遠く、けれど確かに光を帯びていた。




