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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第五十四話 啓之助と彦斎

 冬の京は、骨の髄まで冷えた。

 陽は早く沈み、風は血が凍るように冷たく、世界は音を失っていた。

 人影もまばらな山裾の小径で、啓之助は息を潜めていた。

 竹藪の隙間から覗く祠の灯が、雪明かりに淡く滲んでいる。


 (……ここに来るはずだ)


 新選組を脱したその足で、啓之助は迷わずこの地へ向かった。

 初めて河上彦斎と対峙した、あの竹藪の中。

 名も知らぬ浪人への親しみが憎しみに変わった場所。

 そこに、全てを包み込むような雪が降っていた。


 (ようやく……終わらせられる)


 啓之助は雪もそのままに岩に腰掛け刀を膝に置き、静かに目を閉じた。

 雪の匂いとともに、血の記憶が蘇る。

 父が斬られた日。

 その場におらず何もできなかった自分。

 新選組で流された幾多の血。

 どの命も、誠や義という名の下に無残に奪われた。


 「私はどなたの死も見届けられなかった……」

 自嘲のように呟いた声が、白い息とともに消えた。


 (私は絶対に彼には勝てない)


 啓之助の首が胴から離れる想像は容易い。


 (だとしても、私は父の仇を討たなければならない。『佐久間象山の息子』でも『勝海舟の甥』でも無く『三浦啓之助』として)


 その時、風の向こうから気配がした。

 凍てつく夜気の中を歩む、一つの影。

 その歩調には焦りも迷いもなかった。

 河上彦斎——。

 小柄な身体は旅装の黒衣をまとい、雪を踏む音さえ吸い込むように静かだった。


 啓之助は立ち上がり、ゆっくりと刀を抜いた。

 「京を去る前に、ここへ来る気がしていました」

 声は静かだが、刃先はわずかに震えていた。


 彦斎は足を止める。

 その顔には驚きも怒りもなかった。

 ただ、何かを覚悟している者のように、深い陰りを帯びていた。

 「……三浦啓之助」

 低く呟くその声に、かすかな疲労が滲んでいた。

 「父の仇を討ちに来たのか」


 啓之助は頷いた。

 「はい。今の私には、それしか残っていません」


 彦斎は小さく息を吐く。

 それは、ため息というよりも、どこか安堵に似た音だった。

 「そうか。やはり来たか」

 そして鯉口を切る。

 「ならば、俺の刃でお前の苦しみを終わらせてやろう。

 ——それが、お前にとっての救いならば」


 全ての音は雪に吸い込まれていった。

 二人の間に、張り詰めた静寂が生まれた。


 啓之助が先に踏み込んだ。

 斬撃は速く、鋭く、だが荒かった。

 焦燥と怒りに満ちた剣筋。

 彦斎はそれを容易く受け流し、体をずらす。

 刀が閃くたび、啓之助の頬や腕に血が散る。


 (やはり、届かない……)

 何度斬り結んでも、わずかに空を切る。

 彦斎の剣は音もなく、空気そのもののようだった。


 「……!」

 啓之助の一撃を受け流した刹那、彦斎の刃が閃いた。

 啓之助の刀が弾かれ、雪の上に落ちた。

 同時に、喉元へ冷たい刃が突きつけられる。


 啓之助は息を呑んだ。

 だが彦斎の刀は、寸分も動かない。


 「……なぜ、殺さないのです」

 静かに、啓之助は問うた。


 彦斎は答えなかった。

 長い沈黙が流れた。

 風が二人の間を通り抜け、遠くの竹がきしむ。

 やがて、低く呟く。


 「ただ——殺したくないからだ」


 その声には、かすかな震えがあった。

 斬り続けてきた者の、心の奥底で凍りついた何かが軋む音だった。


 「血で志を語り、血で義を貫き、血で自分を確かめてきた。それが正しいと信じてきた。

 異国の敵を追い払い、今まで通り国を閉ざし、そうしてこそ国を守れると思っている。

 だからこそ、お前の父のような開国論者を斬ってきた」


 彦斎は動乱に揺れ動くこの国を想う様に俯いた。


 「だが、何人斬っても、何も変わらなかった」


 啓之助はその顔を見上げた。

 その瞳の奥に、うっすらと涙の光が見えた。

 「泣いているのですか」

 「泣いてなどおらん」

 彦斎は目を伏せた。

 「ただ、疲れたのだ。人を斬るたびに、自分が削れていく。

 お前を斬れば、俺はもう“人”ではなくなる気がする」


 沈黙が降りた。

 雪の音さえ、聞こえなくなった。


 啓之助は膝をつき、崩れるようにうなだれた。

 「それでも、私はあなたを許せない。父を斬ったあなたを——」

 「許さなくていい。許されるとも思っていない」

 彦斎の声は、静かな藪の中に低く響いた。

 「だが、お前は生きろ。

 生きて、象山の事を忘れるな。

 お前が父の命の重みを背負えば、その憎しみも少しは報われるかもしれぬ」


 その声は、初めて人間の温度を帯びていた。


 彦斎は刀を鞘に収めた。

 雪の中を、ゆっくりと背を向けて歩き出す。

 啓之助はその背を見つめた。

 黒い外套が雪に滲んでいく。

 (この背中を、死にゆく父が見たのだろうか)


 「——河上彦斎!」

 声を張り上げた。

 「あなたを憎むことが、私の刀を持つ理由でした!」

 その声に、彦斎は一瞬だけ立ち止まった。

 振り返らないまま、静かに答えた。


 「ならば、それを抱えて生きろ。

 憎しみと共に、生きろ。

 この時代の先にあるものを、見届けろ」


 雪が深く降り積もっていく。

 その白の中で、彦斎の姿はゆっくりと消えた。


 啓之助は雪に膝をつき、崩れ落ちた。

 息が白く揺れ、指先が震える。

 (殺さなかった……いや、殺せなかったのだ)

 その事実が、心の奥を刺した。


 殺されなかった命が、刃よりも重く感じた。

 その夜、京の雪は止まなかった。

 冷たい光の中で、啓之助の嗚咽だけが、静かに響いていた。

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