第五十三話 帰るべき場所
夜の京は、いつもより静かだった。
冬の風が橋桁を渡り、遠くの灯が滲んで揺れている。
河上彦斎は、濡れた刀身を拭いながら歩いていた。
袖の裏にこびりついた血が、冷たくなって肌に張りつく。
(……また、やってしまった)
あの男の顔が、まだ脳裏に焼きついていた。
昼間、茶屋で偶然隣り合った幕吏。
酔いに任せて開国論を語り、欧米の力を称えるその舌。
その軽薄な笑みが、どうしても許せなかった。
幕吏の後をつけ、人気のない所で。
気づいた時には、刀を抜いていた。
男の首が落ち、血が土の上に弧を描いた。
その光景に驚くよりも、己の手が震えていないことが恐ろしかった。
(俺は、もう人を斬ることでしか息ができんのか……)
風が頬を刺した。
遠くから、寺の鐘が虚ろに響く。
彦斎は、袖の中で微動だにしない指を押さえた。
数日後の夜、長州藩が用意した隠れ家に戻ると使者が待っていた。
肥後藩からの書状。
封を切るまでもなく、内容は分かっていた。
「帰藩、か……」
声に出すと、まるで他人事のように響いた。
幕府も朝廷も揺らぐこの京で、攘夷志士を抱える余裕など藩にはない。
ましてや、幕吏を斬ったなどという噂が立てば、責任を問われるのは藩主だ。
(俺を捨てる気か。それとも、繋ぎ止める気か……)
炉の火が、ぱちりと音を立てた。
彦斎は雑に開いた想定通りの書状を火にかざし、灰になるまで見届けた。
煙の匂いの向こうに、妻の顔が浮かんだ。
(……天為子)
彼がまだ若かった頃。
故郷・肥後で娶った女。
気丈で、しかし笑うとえくぼができる。
あの柔らかな頬を、もう三年も見ていない。
(彦太郎は、俺を覚えているだろうか)
まだ言葉を覚えたばかりだった息子の笑顔が脳裏をよぎる。
京で血を流すたび、その笑顔が霞んでいった。
そのたびに、胸の奥で何かが削れていくようだった。
このまま帰らねば、郷里での妻子の居場所が無くなってしまう。
「……帰るか」
低く呟くと、刀の柄を握りしめた。
血を吸った刃は、まるで屍のように重かった。
夜、支度を整えながらふと立ち止まる。
刀を帯び、外套を羽織り、懐の奥に小さな木札を忍ばせた。
それは息子の初節句に、天為子が渡してくれた守り札だった。
「これを持っていれば、あなたはきっと帰ってくる」と。
(……帰る、か)
口にしても、実感はなかった。
京の街は、いつのまにか遠い異国のように感じられる。
血の匂いが、肌に染みついている。
帰藩したところで、果たして自分は「人」に戻れるのだろうか。
だが、もう迷っている暇はなかった。
雪雲が低く垂れ込める空を見上げ、息を吐いた。
——その時、脳裏にひとりの顔が浮かんだ。
(三浦啓之助)
あの夜、竹藪の中で自分に立ち向かってきた少年。
震える手で刀を抜きながら、それでもまっすぐに目を逸らさなかった。
憎悪と悲哀の入り混じった瞳が、いつまでも焼きついて離れない。
(あれから、どうしている……)
彦斎は歩を止めた。
京を去る前に、どうしても一度だけ確かめたいことがあった。
あの少年が、今どんな顔をして生きているのか。
もし憎しみを捨てていたなら、それだけで救われる気がした。
そして、気づけば足は勝手に動いていた。
竹藪の中へ——あの時と同じ場所へ。
会えるとは思っていない。だが、なぜか足はそこに向いていた。
冷たい風が吹き抜け、竹の葉が擦れる。
雪が音もなく降り積もる中、彦斎は立ち止まった。
「……三浦啓之助」
その名を口の中で転がした。
奇妙に懐かしい響きだった。
ふと空を仰ぐ。
月が雲間から覗き、淡い光を落とす。
その光の下で、彦斎はひとり、目を閉じた。
(せめて、最後にあの眼をもう一度)
そう思いながら、竹の影の奥へと歩き出した。
足は止まらなかった——。




