第五十二話 誠との決別
油小路の夜から、まだ十日も経っていなかった。
だが、屯所を包む空気は、永遠に冬が居座ったかのように重く冷たかった。
夜ごとに夢に見る。
斬られた藤堂の顔を。
倒れ伏す伊東の姿を。
路地を赤黒く染めた血のぬめりを。
(……忘れろ、か)
永倉がそう言った時の、あの震える声が耳の奥でこだまする。
永倉も原田もあの場にいて、返り血で濡れていた。
きっとあの二人も御陵衛士と戦ったに違いない。最悪、藤堂を斬ったのかもしれない。
(あんなに仲が良かったのに……)
永倉と原田が酔って騒いで藤堂が世話を焼いて諌める。そんな光景を何度目にしたことか。
(それ程までに心を通わせた相手を……あんな方法で惨殺して……あの二人はそれで良かったのか……)
伊東、藤堂、毛内、服部——御陵衛士の遺体は、すぐには葬られなかった。
数日もの間、あの油小路の路地に晒されたままだった。
逃げ延びた御陵衛士の残党をおびき寄せるためだと聞いた。
(そんな……理屈があるか……!)
血と屍を餌にするような姑息な真似をしながら、「誠」を掲げ続けるのか。
啓之助の胸の奥に、黒いものがじわりと滲んでいった。
この新選組にて刀を振るうことの意味を、彼はもう信じられなくなっていた。
本日の巡察は永倉、原田と一緒であった。
永倉も原田も油小路の一件については何も口にしない。もちろん啓之助もだ。
山南さんが亡くなった後に、蔵で大酒を飲みながら、涙ながらに語り合った夜を思い出した。
(こんな組織の中でもこの人達は人間らしいと、そう思っていたのに)
啓之助が唇を噛むと口内に血の味が広がる。
その手は音もなく刀の鍔に添えられる。
(いっそのこと、ここで二人を斬ってしまおうか。伊東先生と藤堂さんの仇討ちができるかもしれない)
やるせなさが膨らみ、衝動的な考えが浮かんだ。
二人の大きな背を目の前にどちらから斬るか視線を動かしていた所、
「お前の腕じゃ、俺達を殺せねぇよ」
永倉が振り向きもせずに告げる。
啓之助は心臓が跳ね、刀から手を離した。
「なぜ、分かったのですか」
「こちとら普段から命のやりとりしてんだ。殺気くらい分かるぜ」
「土方さんに報告しますか?謀反の疑いありと」
「ばっか、おめぇ。俺らだって好き好んで仲間殺してぇ訳じゃねぇ」
啓之助は息を吸い込んだ。それならばなぜ藤堂さんを殺したのか、と問いただす為に。
「俺らは本当はあいつを逃がそうとしたんだ。近藤さんの命でな。まぁ、そんな命が無くとも鬼の目をちょろっと誤魔化して逃がすつもりだったがな」
「……何を今更」
ではなぜ藤堂は無残に殺されていたのか。それが答えだった。
永倉は啓之助の憤りを無視して続ける。
「だけどな。平助のやつぁ、そんな卑怯な事できねぇの一点張りでな。御陵衛士として死ぬ事を望んだ。こりゃ推測だが、伊東先生を新選組に招いたのは平助だ。責任感じてたんじゃねぇか」
「だから、俺が平助を斬った。恨むなら俺を恨みやがれ」
今まで口を閉ざしていた原田が口を開いた。
「しょうもねぇ嘘つくな。俺も新八も平助を斬ってねぇ。ただ、あいつの死に様を見届けただけだ」
「おい、左之」
「こんなとこで嘘ついてもしゃあねぇだろ。恨みを引き受けようだなんて、かっこつけんな、新八」
「くっそ、皆まで言うなよ。この野郎」
啓之助はもう何も言えなくなっていた。
数日後の日中、屯所の縁側でぼんやり空を見上げていると、背後から足音が近づいた。
聞き慣れた、静かな足取り。
「よく何食わぬ顔でいられますね。面の皮が厚いようでなによりです」
皮肉を投げかけながら振り返れば、斎藤一が立っていた。
「ずいぶんな嫌われ様だな」
「当たり前じゃないですか。御陵衛士に加わったのは間者としてでしょう?現にこうして新選組に戻って来てるんですから。ねぇ、斎藤一さん。ああ、すみません。今は山口二郎さんでしたっけ?」
「それだけ嫌味が言えるくらいには、元気になったみてぇだな」
「ええ、あなた達のやり方に腸煮えくり返ってますよ」
啓之助の憎しみの篭った返しに、斎藤は目を細めた。
しばしの沈黙の後、低く言葉を落とす。
「お前の討つべき相手は別にいるだろ」
そして、斎藤は息を一つつく。
「河上彦斎が、肥後に帰るらしい」
「……え?」
「数日前に、奴が幕吏を斬ったという噂が京に流れた。その後、姿を消した。肥後藩は佐幕派だ。河上彦斎の過激なやり方に目をつむれなくなった藩から、帰藩命令でも出たんだろう」
啓之助の心臓が一瞬止まったように感じた。
その名を聞いたのは、久しぶりだった。
だが、その響きは決して忘れられなかった。
(河上彦斎……父上の仇……)
「お前に伝えておく。決めな。追うか、諦めるか」
「私は……」
冬枯れの木々が、風にざわりと鳴る。
「彼に……河上彦斎に……会わなければなりません」
斎藤はゆっくりと頷き、踵を返した。
啓之助はその背を見送りながら、膝の上で拳を握りしめた。
心の奥で、何かが静かに軋んだ。
——逃げることは、もうできない。
夜。
啓之助は、屯所の一室に呼び出された。
障子の向こうから漏れる灯の明かり。
中では、近藤と土方が卓を挟んでいた。
「三浦君、入れ」
近藤の声は柔らかかったが、その隣の土方は無言のまま煙草をふかしている。
重苦しい空気に、啓之助は膝をついた。
「——話があると聞きました」
「うむ。斎藤から聞いた。君、父の仇を追うそうだな」
近藤の問いに、啓之助は静かに頷いた。
「はい。父の仇を、この手で討ちます」
近藤は腕を組み、じっとその瞳を見据えた。
やがて、低く息を吐いた。
「……立派だ」
「え?」
「仇討ちは、武士としての義だ。俺も、同じ立場ならそうしただろう」
近藤の声には、武士の矜持を懐かしむような響きがあった。
土方が眉をひそめる。
「近藤さん、本気で言ってるのか」
「歳」
「脱退を許せば、前例になる。規律が崩れる」
「だが、彼の父は佐久間象山。志の人だ。その仇を討つというなら、それもまた一つの誠だ」
近藤の言葉に、土方は黙り込んだ。
その横顔を啓之助は見つめた。
眉間の皺、冷たい瞳、固く引き結んだ唇。
だがその奥に、かすかな疲労の影が見えた。
(鬼の癖に……今更、そんな人間らしい顔を見せるな)
幕臣取り立ての夜、近藤を慰めていた土方の穏やかな表情が、啓之助の脳裏をよぎる。
この男にも、血を流しすぎた者の哀しみがあるのかもしれない——そう思った。
沈黙ののち、土方が口を開いた。
「勝手にしろ。ただし、脱退した以上、もう“新選組”の名を口にするな」
「……承知しました」
啓之助は深く頭を下げた。
部屋を出ようとした時、背後から近藤の声が届く。
「啓之助君」
「はい」
「……君の誠は、君の信じる形で貫け」
障子を閉める音が、やけに重く響いた。
夜の冷気が頬を撫でる。
啓之助は刀を抱え、玄関へと向かう。
こほりと、乾いた咳が聞こえた。
「あれ。こんな夜にどうしたの?」
口元を手で抑えながら、寝間着姿の沖田が声をかけてきた。
彼の目元はクマが見られた。咳が続き眠れないのだろう。隊内では彼は労咳にかかっていると囁かれていた。
「……今までお世話になりました」
「え。何だい?」
「今日で離隊します。局長、副長には話は通しています。永倉さん、原田さん……あと斎藤さんにもよろしくお伝え下さい」
「油小路の事があったから……?」
「いいえ。父の仇、河上彦斎を追います」
啓之助は痩せて細くなった沖田の姿を見ていられず、踵を返した。
「沖田さん。病気なんかに負けないで下さい。沖田さんは強いんだから」
こほりとまた咳が溢れる。
「当たり前だよ。僕はまだまだ近藤さんの役に立たなきゃいけないからね」
啓之助はもう沖田の顔が見られず、そのまま歩を進めた。
西本願寺の門を出た。
啓之助の新選組隊士としての生活は終わりを迎えた。
(私がこうも呆気なく離隊できるなら)
山南の脱走、伊東・藤堂の離隊。
それだけではない、他の隊士の数え切れない程の脱走や離隊。
その結末はいつも血だった。
(いっそのこと、私も殺せば良かったのに)
それを土方ができない理由は啓之助自身がよく分かっていた。
(佐久間象山の息子、勝海舟の甥。私は名前に生かされてきた)
河上彦斎を斬れば、『佐久間象山の息子』でも『勝海舟の甥』でもなく『三浦啓之助』という一人の人間として生きていけるのか?
答えのない問いの中で、啓之助はひとり歩き出した。




