第五十一話 血の油小路
慶應三年十一月十八日。
その日は、朝から不気味だった。
一部の隊士達が、何かの密命を帯びたように挙動不審になっていた。
笑い声が妙に軽く、歩く足取りが落ち着かない。
その浮ついた空気の下に、張り詰めた緊張が蠢いていた。
(嫌な予感がする……)
啓之助はざわつく隊士たちを横目に、胸の鼓動が速まっていくのを感じた。
(今夜、近藤さんは伊東先生と酒宴があるらしいが……)
その報せを聞いた瞬間から、胸の奥に黒い塊が居座っていた。
(ま……まさかな……いくらなんでもそこまではしないだろう……伊東先生はもう新選組の人間じゃない。これまでだって内部の処罰はあったが、外部の者を夜襲するなんて——)
理性では否定しても、掌が冷たく汗ばんでいた。
夜。
ふと、廊下を抜ける足音で目が覚めた。
複数人の足音——息を潜めた動き。
襖の隙間から覗くと、門を出ていく影があった。
永倉新八、原田左之助。
そしてその中に、狼のように鋭い眼光の男。
斎藤一。
(斎藤さん……! 御陵衛士に加わったはずなのに……なぜここに……!)
一行は闇に溶けるように西本願寺を出ていった。
啓之助の心臓が跳ね上がる。
(まさか——御陵衛士の屯所を夜襲する気じゃ……!)
考えるより早く体が動いていた。
闇に紛れるよう黒い着物に袖を通し、夜の中へ走る。
(脱走と思われたら殺されるかもしれない……それでも——)
脳裏に浮かぶのは、あの人達の穏やかな笑みだった。
理を優しく説いてくれた伊東甲子太郎。
そして、「また会おう」と笑って別れた藤堂平助。
(見捨てられない)
夜気は冷たく、吐く息が白い。
京の町を駆け抜けるたびに、足音が響いた。
——啓之助は油小路に差し掛かった。
だが、啓之助が辿り着いた時、すでに全ては終わっていた。
風が、やけに静かだった。
遠くで犬が吠える声さえ、夜気に吸い込まれていく。
油小路。
その名を、誰がこれほど似つかわしいと感じただろう。
油のようにぬめる血が、地面をゆっくりと染めていた。
その血溜まりの路地の中央に、人が倒れていた。
伊東甲子太郎。
仰向けに倒れ、白い顔に月明かりが差していた。
腹と喉を深々と斬られ、血が地面に黒く滲んでいる。
その顔には驚きでも怒りでもない、どこか悟ったような静けさがあった。
(伊東先生……!)
次に目に入ったのは、壁にもたれかかるように息絶えた藤堂平助だった。
優しげで整った顔が額から鼻にかけて深々と割られて事切れている。
眼は半ば開き、即死であった事がわかる。
少し離れた場所には、御陵衛士の毛内有之助と服部武雄の遺体が転がっていた。
どちらも見るも無残だった。毛内は四肢を切り裂かれ身体がバラバラに転がり、服部は全身刀で斬りつけられていた。
地面に赤黒い血が染み込んでいく。
月が雲に隠れ、夜がいっそう深くなった。
(……え?嘘だ。そんな訳……伊東先生も藤堂さんも死んでないはずだ……こんな終わり方なんて……)
(これは悪夢だ……そうだ、そうに違いない。これは夢で二人は今も元気にしてるはず……)
目の前の凄惨な光景は夢幻だと思い込み、啓之助は何度も瞬きをする。
だが、何度瞬きしても血溜まりに転がる伊東も顔を割られた藤堂も消えてくれなかった。
胸の奥が締めつけられた。
足が震え、呼吸が乱れる。
その時、背後から足音が近づいた。
「……啓之助!」
永倉新八だった。息を切らし、血に染まった袖を払う。
「何でお前がここにいる!」
続いて原田左之助が現れた。
「今見たことは忘れろ!」
声が低く響く。
「忘れろ……だって……?」
啓之助の声がかすれた。
「こんなもの、忘れられるわけがない……!」
永倉が苦い顔をする。
「馬鹿言うな、命が惜しけりゃ——」
その瞬間、背後から冷たい声が割って入った。
「——勝手な真似をしたな」
振り向くと、土方歳三が立っていた。
灯の届かぬその目には、感情の影がなかった。
「屯所を勝手に抜け出したな。何のつもりだ」
啓之助は唇を噛んだ。
「なぜ……なぜこんなことをしたんですか! 伊東先生たちは……敵じゃなかったはずです!」
「敵じゃなくとも、裏切り者だ」
「裏切り? 思想が異なっただけじゃないですか!」
土方の瞳が細められる。
「思想だけで人が動くなら、誰も死なねぇ」
啓之助の胸に怒りが燃え上がった。
「新選組は不逞浪士を取り締まるためにあったはずだ! なのに今はどうです!? 内輪で殺し合って……何が“誠”だ! 誠実の欠片もない! 笑わせる!!」
その瞬間、土方の眼光が鋭く閃いた。
無言で刀を抜く。銀の刃が月明かりを弾いた。
啓之助の胸が高鳴る。
だが、一歩も退かなかった。
「やってみてくださいよ」
啓之助の声は今まで出したことのない声量で、はっきりと夜を裂いた。
「勝海舟の甥を斬れるものなら、斬ってみればいいじゃないですか! ああ、伯父さんの覚えが悪くなるからできないですか? 幕府は政を返上しても伯父さんは未だ政に関わってますからねぇ!!」
空気が凍りついた。
永倉も原田も、息を呑んだまま動けない。
沈黙の後、土方はゆっくりと刀を鞘に戻した。
その表情に浮かんだのは怒りではなく、微かな哀しみだった。
「……だったらせいぜい、その名に恥じねぇよう、生きろ」
それだけ言い残し、背を向ける。
月明かりの中を、静かに歩き去っていった。
残された啓之助は血肉の匂いがする中、膝をついた。
冷たい地面に両手をつき、震える唇で息を吐いた。
(誠……忠義……理想……そのどれもが、人を殺すための言葉なのか)
夜風が吹き抜け、血の匂いを遠くへ運んでいった。
——この夜を境に、啓之助の中で新選組は死んだ。




