第五十話 沈む太陽、揺らぐ忠義
秋の風が冷たくなり始めた頃だった。
西本願寺の屯所に、駆け足で飛び込んできた使者の声が、静まり返っていた空気を切り裂いた。
「——大政奉還、とのことにございます!」
その一言で、場の空気が凍りついた。
永倉が真っ先に立ち上がり、顔を歪めて怒鳴る。
「ふざけんなよ……! 将軍が政を返すだと? じゃあ俺たちは何のために剣を握ってきたんだ!」
誰もすぐには返せなかった。
土方は腕を組んだまま、沈黙している。
その横で、近藤が小さく息を吐いた。
「……上様は、己の身を削って国を護ろうとされたのだろう」
掠れた声には、諦めとも覚悟ともつかぬ響きがあった。
やがて誰も言葉を発さず、重たい沈黙だけが残る。
啓之助はその中に立ち尽くしていた。
(幕臣である伯父上は……知っていたのか……)
——勝海舟の甥。
その立場を思うだけで、胸の奥が冷たくなる。
だが、ここで何かを口にすれば、裏切り者の烙印を押されるだけだ。
「……今日はもう解散だ」
土方の低い声が響く。
皆がそれぞれ無言のまま立ち上がり、部屋を後にした。
啓之助も出ようとしたその時、土方とすれ違いざまに肩を叩かれた。
「——今夜、俺の部屋に来い」
それだけ言い残して、土方は背を向けた。
啓之助の心臓が一瞬止まる。
(……伯父上のこと、か)
冷や汗が首筋を伝った。
夜。
風は冷たく、月は薄雲の向こうにぼんやりと滲んでいた。
啓之助は静かに土方の部屋の前に立つ。
障子の向こうから低い声が響いた。
「入れ」
部屋の中は、灯明の光が畳を淡く照らしていた。
土方は正座したまま、黙って腕を組んでいる。
啓之助が正座すると、しばらくの沈黙が流れた。
やがて、土方の声が落ち着いた調子で響く。
「……お前は勝先生の甥だったな」
「はい」
「じゃあ、何か聞いてるんじゃねぇのか。大政奉還のことを」
その言葉は淡々としていたが、圧があった。
啓之助は目を伏せ、慎重に言葉を選ぶ。
「伯父は国の機密事項を軽々しく口にするような人ではありません」
土方は腕を組み直し、啓之助の顔を見つめた。
その眼差しは、炎のように静かに、しかし鋭く燃えていた。
「そうか。……ならいい」
それだけ言うと、土方は少し笑った。
だがその笑みは冷たく、どこか虚ろだった。
「お前もよくよく身の振り方を考えた方がいい。幕臣の甥なら尚更な」
啓之助は黙ったまま、その視線を受け止めた。
口を開けば、何かが壊れる気がした。
土方は組んだ腕を解き、短く息を吐く。
その手元を見ながら、啓之助の脳裏に、ふと数日前の光景が蘇った。
——幕臣取り立ての日の夜。
近藤が涙をこぼしながら酒を飲み、隣で土方が穏やかに笑っていた。
あの時の二人の姿は、まるで長い冬を乗り越えた同志のようだった。
剣を抜き続けた年月の重みを分かち合う、そんなぬくもりがあった。
(この人も……きっと、報われたかったんだ)
胸の奥が静かに疼く。
だがすぐに首を振る。
情けをかける相手ではない。
この男は、冷酷な鬼の副長・土方歳三。
新選組を守るためなら、容赦なく仲間を斬る人間だ。
脳裏に山南さんの穏やかな笑顔が浮かぶ。
もう彼は永遠に帰ってこない。
「……下がってもいいですか」
啓之助の声はわずかに掠れていた。
土方は何も言わず、ただ頷いた。
部屋を出ると、夜の冷気が頬を撫でた。
廊下の向こうに、灯明の光がゆらゆらと揺れている。
(私は……何を信じて、どうしていけば良いのだろう)
遠くで風鈴の音が鳴った。
秋の風に消えていくその音が、啓之助にはやけに寂しく聞こえた。




