表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
比翼の仇  作者: 烏丸 燈


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/64

第四十九話 百姓が夢見た景色

 慶応三年、六月十日の京の空は、どこまでも青かった。

 午の刻、講堂に全隊士が整列し、張りつめた空気の中、近藤勇が姿を現した。

 黒の裃をまとい、背筋を伸ばしたその姿は、もはや一介の浪士ではなかった。

 彼の隣には、いつものように土方歳三が控えている。

 しかしその顔にも、普段の険しさではなく、静かな誇りが宿っていた。


 「諸君——」


 近藤の声が、ゆるやかに広がった。

 蝉の鳴き声さえ止んだかのような静寂の中で、彼の言葉だけが凛として響く。


 「本日をもって、我ら新選組は正式に幕臣となる。

 浪士として市中を駆け回った我らが、ついに将軍家に仕える身となった。

 これは、誰か一人の功績ではない。ここにいる全員が、己の命を懸けて“誠”を貫いてきたからだ」


 隊士たちの間にどよめきが起こった。

 永倉は笑みを浮かべ、原田は嬉しさを隠しきれずに拳を握る。

 中には涙をこらえる者もいた。

 だが、啓之助の胸には違う感情が生まれていた。


 (幕臣……それは名誉なのだろうか。それとも、鎖なのだろうか)


 彼の耳には、まだ藤堂の声が残っていた。

 ——剣の力だけで人を裁く時代は、もう終わる気がする。

 あのときの言葉が、今になって重く響く。


 近藤は一同を見渡し、力強く言った。


 「これからは、我らが幕府を背負う誇りを持て。

 京の治安も、幕府の威信も、この剣一本に懸かっている。

 たとえ世の風がどう吹こうとも、俺たちは“誠”の旗を掲げて進む!」


 「応っ!」と一斉に声が上がる。

 啓之助も声を張り上げたが、その心はどこか空洞だった。


 (“誠”の旗の下に……父の仇を追う私がいる。

  だが、河上彦斎におそらくもう会えない。

  なのに、私はまだここにいる)


 まるで、自分だけが別の道に取り残されたような孤独を覚えた。




 夜。

 啓之助は灯りの消えた廊下を歩いていた。

 厠へ行こうと外に出たところ、ふと、縁側から小さな笑い声が聞こえた。

 覗くと、月明かりに照らされた縁側に、近藤と土方の二人が腰を下ろしていた。

 どうやら、二人だけで晩酌をしているようだった。


 咄嗟に啓之助は柱の陰に身を隠した。

 月光の下、徳利が傾き、酒が盃に注がれる音がした。


 「……俺たちが、幕臣、か」

 近藤の声は、かすかに震えていた。

 「多摩の百姓の倅が、将軍家に召し抱えられるなんて……夢のようだな」


 笑い声に混じって、ぐっと喉を詰まらせる音がした。

 次の瞬間、近藤の目からぽろりと涙がこぼれた。

 「歳……俺たち、ここまで来たんだなぁ」

 その声には、あの日、試衛館で夢を語り合っていた若き日の熱が戻っていた。


 土方は盃を持ったまま、静かに頷いた。

 「そうだな。あんたが“武士になりてぇ”って言ったとき、笑った連中は今どこにいる?

 俺たちは笑われながら、それでも剣を握って生きてきた。誇っていいさ、勝っちゃん」


 土方はわざと近藤の旧名のあだ名で呼んだ。

 それはかつての青春時代を思い起こさせた。


 「歳……お前がいたからここまで来れた」

 近藤は涙を拭いながら笑った。

 「俺ひとりじゃ、何もできなかった。お前がいなきゃ、新選組はここまで続かなかった」


 土方は盃を傾け、照れ隠しのように酒を呷った。

 「馬鹿言え。俺はあんたに惚れたわけじゃねぇ。ただ、あんたの“誠”を守りたかっただけだ」


 その言葉に、近藤は声を上げて笑った。

 笑いながらも、その目にはまだ涙が光っていた。


 啓之助は、息を殺したまま二人を見つめていた。

 その背中からは、幾度の死線を越えた男たちの絆が滲み出ていた。

 ——この人たちは、間違いなく“誠”のために生きてきた。


 戦い、裏切り、血の中でしか生きられない彼らの世界。

 けれどその誠の形は、誰よりも純粋だった。


 (私は……何を迷っているんだろう)


 仇討ちのためにここにいる自分。

 だが今、目の前で見た二人の姿に、言葉にできない温かさが胸に広がっていった。

 伊東の理も、彦斎の思想も理解できる。

 だがこの人たちの“誠”にも、確かに真実がある。


 月明かりが、庭の石畳を淡く照らしていた。

 啓之助はそっと目を閉じ、夜風の中で息を吐いた。


 (私も、もう少し……この誠を見ていたい)


 そう思いながら、啓之助は縁側から静かに離れた。

 背後で、近藤と土方の笑い声が夜に溶けていった。

 その音は夜風に溶け、静かな京の町に優しく響いた。

 まるで、短い春の夢のように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ