第四十八話 春の別れ、御陵衛士出立
春の陽が、洛中の瓦屋根にやわらかく反射していた。
梅がほころび、町を行き交う人々の顔にも穏やかな笑みが戻りつつある。
けれど西本願寺の屯所には、冬の名残のような張りつめた空気が漂っていた。
「……出立は今日か」
近藤勇が低く呟く。
畳の上には数枚の脱退届が並び、その筆跡の中に見慣れた名前があった。
伊東甲子太郎、藤堂平助、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、斎藤一……。
その中に藤堂の名を見つけた瞬間、啓之助の胸はきゅっと締めつけられた。
(やはり……行ってしまうのか)
数日前、伊東が朝廷から「御陵衛士」任命を拝受したという知らせがあった。
尊王を掲げるその新たな組織の名は、幕府の剣として京を守ってきた新選組とは、正反対の立場にあった。
伊東の辞意を聞いた近藤は、表面上は穏やかに「残念だ」とだけ言った。
だが、屯所に残った者たちの表情は硬く、空気は冷たかった。
笑う者も、口を開く者もいない。
啓之助は沈黙の中、ただ藤堂の姿を探した。
廊下の端、行李に荷を詰めながら笑っている背中が見えた。
昔と変わらぬ、どこか優しく、それでいて強い光を宿した笑みだった。
「……行くんですね」
声をかけると、藤堂は振り向いた。
「おう、啓之助君。見送りに来てくれたのかい?」
「ええ。……やはり、行くのですか」
藤堂は少し照れたように頭をかいた。
「試衛館生え抜きの僕なんかが先生方の中に混ざっていいのかとも思ったんだけどな。伊東先生は『藤堂君がいてくれなきゃ困る』なんて言うからさ」
啓之助は微笑もうとしたが、口元が引きつった。
「……寂しくなります」
「ははっ。何だよ、君までそんな顔するなよ。新選組だって悪くない。けど、僕はどうしても見たいんだ。先生の“理”がどうこの国に響いてくのか」
藤堂は窓の外を見上げた。
庭の柳が、春風に揺れている。
「世の中が変わる。そう思わないか? 剣の力だけで人を裁く時代は、もう終わる気がする」
その言葉に、啓之助は胸の奥がざわついた。
——それはかつて、父・象山が口にした言葉に似ていた。
「藤堂さん」
「ん?」
「……貴方は優しい人です。誰かを斬るより、誰かを守るために剣を振るえる人です」
藤堂は少し目を細め、にかっと笑った。
「それ、褒め言葉か?」
「もちろんです」
「そっか。ありがとな」
その時だった。
廊下の向こうから、足音が一つ。
「随分と楽しそうに話してるじゃないか」
振り返ると、斎藤一がそこに立っていた。
静かな笑みを浮かべながらも、目の奥は冷ややかで、どこか測りかねる光を宿している。
「斎藤さんも御陵衛士へ参加するなんて意外だったよ」
藤堂が驚いた声を上げる。
「新年から伊東先生に誘われててね」
「それでも、てっきり近藤さんの側につくと思ってた」
「まぁ、そう思うだろうねぇ。だが、ここに居たら井の中の蛙だ。俺はただ……見識を広げてみたいだけさ」
穏やかな口調の裏に、何か別の意図が潜んでいる。
啓之助はその微妙な温度差を見逃さなかった。
(……この人、何かを隠している)
斎藤は藤堂の肩を軽く叩いた。
「ま、向こうでもよろしく頼みますねぇ。俺はあまり集団に溶け込むのが得意じゃないんでね」
「はは、分かってるさ。先生を始め御陵衛士はいい人ばかりだ。問題ないよ」
そう言って笑う藤堂の横顔を見ながら、啓之助の中に一抹の不安がよぎった。
斎藤の笑みは、どこか無機質だった。
御陵衛士の旗の下に立つその姿に、忠誠も理想も感じられない。
まるで、別の目的のためにその場にいるかのように。
藤堂が出立の支度を整え、襖の外に出る。
「なぁ啓之助君。いつか落ち着いたら、また一緒に酒でも飲もうぜ。そん時、腹割って話したい。僕の理想も、君の信念も、全部」
「……はい。楽しみにしています」
「よし、それで決まりだ」
その言葉の裏で、斎藤が小さく目を細めた。
「——約束、ねぇ。いい響きだ」
藤堂が笑って答える。
「人と人との縁ってのは、約束から始まるものだよ」
「……そうかもしれないねぇ」
藤堂は行李を担ぎ、斎藤と共に廊下を歩き去っていった。
啓之助はその背中を見送りながら、胸の奥がじわりと重くなるのを感じた。
——また、いつか会えるはず。
そんな想いが春の陽だまりの中で静かに膨らんでいった。
御陵衛士一行が屯所を後にする頃、空には霞がかかっていた。
去りゆく背を見送りながら、永倉が小さく呟く。
「これで、うちは戦力を削がれたな」
土方は無言のまま煙管をくゆらせ、近藤はただ目を細めていた。
その中で啓之助だけが、最後まで藤堂と斎藤の背を追っていた。
春風に翻る羽織の裾が、陽の光を受けて一瞬、まぶしく光った。
まるで新しい時代へと向かう旗のように。




