第四十六話 崩れゆく均衡
春の京は、霞がかかったように白んでいた。
町を渡る風に花の匂いが混じり、人々の声が遠くで響いては消えていく。
その穏やかな景色の裏で、西本願寺屯所には目に見えぬ亀裂が走りはじめていた。
啓之助は、それを肌で感じていた。
稽古場では笑い声が絶えずとも、どこか張りつめたような緊張がある。
誰もが口にはしないが、近藤と伊東――二人の間に漂う冷たい空気が、隊全体を覆っていた。
ある朝、啓之助が廊下を掃いていると、奥から土方の低い声が聞こえた。
「……表向きは何もないように見せろ。動揺を出すな」
誰に言っているのかは分からないが、その声音に、いつもの静かな冷徹さ以上の苛立ちが滲んでいた。
――近藤局長と伊東先生、もう修復はできないのかもしれない。
啓之助はそう思った。
その日の昼、屯所の庭で沖田とすれ違った。
沖田はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていたが、どこか顔色が悪い。
「大丈夫ですか、沖田さん」
声をかけると、沖田は少し咳き込みながらも笑って答えた。
「へいき、へいき。ただ、少し疲れが溜まってるだけだよ」
啓之助は心配になりながらも、それ以上は聞けなかった。
沖田の手がかすかに震えていることに気づいたが、本人が笑っている以上、何も言えなかった。
その背中が、やけに小さく感じられた。
夕刻、屯所の裏門近くで藤堂平助に呼び止められた。
「啓之助君、ちょっと」
藤堂の顔にはいつもの軽さがなく、妙に真剣な表情をしている。
二人は人気のない通りまで歩いた。
「伊東先生、今日もどこかに出かけてる。京の公卿と会ってるらしい」
「……また勤王の話ですか」
「あぁ。どうも、幕府よりも朝廷の方を重く見てるようだ。……けど、幕府寄りの近藤さんや土方さんは、それを裏切りだと思ってる」
藤堂は唇を噛みしめた。
「このままじゃ、遅かれ早かれ、ぶつかる。お互いに“志”がある分、余計に厄介だ」
啓之助は黙って頷いた。
その目の奥に宿るものは、もはや一介の隊士の不安ではなく、
時代という大きな渦を見つめる若者の戸惑いだった。
「……なぁ、啓之助君。もしもの話だが」
藤堂がぽつりと呟く。
「伊東先生が離隊したら、君はどっちにつく?」
啓之助は少しのあいだ考え込み、それから静かに口を開いた。
「私は、近藤局長にも、伊東先生にも恩があります。どちらかを選ぶなんて、できません」
啓之助は腰の刀をさすった。
胸の中の黒い炎が燃え上がる。
思想を語る前にこの刀で斬らねばならぬ人がいる。
「ですが、私はこの刀で父の仇を討たなければなりません。ここに……新選組に残ります」
藤堂は哀しそうな目をした後に、啓之助の覚悟を認めるように笑った。
その夜、啓之助は寝所で目を閉じても眠れなかった。
近藤と伊東の言葉が、何度も脳裏で交錯する。
――武士とは理屈じゃねぇ。命を張って示すもんだ。
――理なき剣は、ただの暴力だ。人を導くものではない。
どちらも正しい。
だが、正しさがぶつかり合うとき、人は必ず誰かを斬らねばならない。
それがこの時代の真理なのだと、啓之助は思った。
翌日。
伊東が屯所の講義室で隊士たちを集め、「学問講義」を開いた。
啓之助もそれとなく座の隅に加わった。
伊東は筆を取り、板の上に「理」の文字を大きく書いた。
「諸君、理を持たぬ者は、獣と変わらぬ」
その声は静かで、しかし刀より鋭かった。
「武士が剣を振るうのは、己の怒りのためではない。国のため、人のため、そして正しき理のためだ」
「今、この国は異国の目に晒され危機に瀕している。その状況でやれ長州だなんだなどと、国内で争っていていいものか?答えは否。今こそ、国内一致団結し、この国の危機を乗り越えるべきではないのか」
講義を聴く者の中には真剣にうなずく者もいれば、鼻で笑う者もいた。
永倉や原田のような生粋の剣士たちは、こうした話を快く思っていない。
啓之助は、伊東の言葉の正しさを感じながらも、その背後に漂う孤独を見た。
――この人は、自分の信じる道のためなら、たとえ誰を敵に回しても構わないのだ。
まるで開国論を唱えた父のように。
そう思った瞬間、胸の奥がざわめいた。
それは尊敬に似た感情であり、同時に恐れでもあった。
講義のあと、伊東がふと啓之助に目を向けた。
「三浦君、少し時間をもらえるかな」
啓之助は軽く頭を下げて部屋を出た。
廊下を並んで歩くと、伊東は柔らかく微笑んだ。
「君は、理を理解できる数少ない人材だ。……この世の混沌を変えられるのは、理と志を持つ者だけだ」
「……理で世界を変えられるでしょうか」
「変えられるとも。だが、変わる事を恐れる人々が必ず妨げる」
伊東の瞳には、炎のような光が宿っていた。
その情熱に、啓之助は何も言い返せなかった。
ただ、伊東の歩む道が、あまりに孤独で、あまりに危ういことだけは理解できた。
数日後、屯所の空気はさらに重くなった。
伊東の部屋に出入りする者が増え、密談が絶えない。
藤堂平助、鈴木三樹三郎、篠原泰之進――その顔ぶれは、次第に一つの派閥を形づくっていく。
そして、ある夜。
啓之助は偶然、廊下の向こうで土方と近藤が話すのを耳にした。
「伊東先生は……もはや手遅れだな」
「放っておけば組が割れる。処置は早い方がいい」
啓之助の背筋が冷たくなった。
その言葉が、血の匂いを帯びているように感じた。
ふと、風が吹き、蝋燭の火が揺れた。
長屋の屋根越しに見えた月が、まるで血に染まっているように見えた。
啓之助はその光の下で、静かに拳を握りしめた。
――もうすぐ何かが起こる。
それは、誰にも止められない流れだった。




