第四十四話 裂けゆく志
まだまだ木枯らしが吹く季節。
洛中の往来を吹き抜ける風は、冷たい頬を更に撫でる。
日々の町方警邏に明け暮れる新選組にも、知らぬ間にその冷気が染み込んでいた。
啓之助は、屯所の庭を雪かきしていた。
木製の雪かきすきも雪が染み渡り黒く変色していた。
だが、それを見つめる眼差しには、まだあの日の温もりが残っていた。
原田の子を抱いたときに感じた命の鼓動――それは幾日を経ても心に消えぬ炎のように灯り続けていた。
けれど同時に、胸の奥では別の炎が静かに燻っていた。
父・佐久間象山を斬った仇。
河上彦斎。
そして――その彦斎が「親友の仇」を求めた先にあった、宮部鼎蔵の自刃。
どれほどの血が流れても、憎しみの果てには虚しさしか残らぬのか。
それでも人は、復讐を捨てられない。
そんな矛盾が、啓之助の胸を締め付けていた。
背後で、草履の音がした。
「おい、坊ちゃん。雪かきとは、ずいぶん暇そうじゃねえか」
振り返ると、永倉新八が立っていた。
いつものように快活で、肩に羽織をかけた姿が壮観で絵になる。
「いえ、永倉さん。日課の掃除です」
「真面目なこった。だが、そんな真面目すぎる顔してっと、いつか損するぜ」
冗談めかして言うが、その瞳の奥には、どこか鋭い光が潜んでいる。
「……最近、隊の空気が変だと思いませんか」
啓之助がぽつりと言った。
永倉は一瞬、表情を曇らせたが、すぐに「気づいたか」と低く笑った。
「上が騒がしいからな。近藤さんと伊東さんの間で、何やら話が合わねえらしい」
「思想の違い……ですか?」
「ああ。伊東さんは勤王を掲げてる。近藤さんは将軍家を守るって一本筋を通してる。そりゃ、どっかでぶつかるわな」
永倉は腕を組んで空を見上げた。
その横顔には、長年の戦場をくぐった者だけが持つ静けさがある。
「ま、俺たちにできることは、毎日刀を研ぐことだけだ。どっちが正しいとか、そんなもん俺には分からねえ」
啓之助はその言葉に頷いた。
けれど心の中では、別の疑問が芽を出していた。
――正しいとは、何だろう。
父は「開国」を説き、河上は「攘夷」を掲げた。
だが結局、どちらも血の上に築かれてきた。
それがこの国の現実だ。
夜、屯所の灯りが消え、虫の声だけが響く。
明日は近藤と伊東が「西国調査」という幕命のため広島へ向かうという。
啓之助は胸の中でざわつきを覚えた。
(また、何かが動く……)
翌朝、見送りの列に並んだ隊士たちの顔には、張り詰めた空気が漂っていた。
近藤は堂々と馬に跨り、伊東は柔和な笑みを浮かべていた。
だがその笑みの奥にあるものは、啓之助の目にも分かる。
互いに歩む道の違い。
その溝は、もはや埋まることのないものだった。
数日後、屯所に残った隊士たちは、彼らの不在を埋めるように訓練に励んだ。
永倉が声を張り上げ、土方が冷ややかに見回す。
その一方で、啓之助は斎藤一の視線を背に感じていた。
あの監視の眼は、まだ続いている。
だが、斎藤は何も言わなかった。
むしろ最近では、時折「お前、変わったな」と穏やかに笑うことさえあった。
「変わった……ですか」
「昔より、迷いが減ったように見える。だがな、坊ちゃん。迷いが減るのは、悟ったときだけじゃねえ。諦めたときもだ」
その一言に、啓之助は何も返せなかった。
夜更け、啓之助は眠れず、文机に頬杖をついた。
(父上……あなたなら、この国の混乱をどう見たでしょう)
(この血の時代を、言葉で導けると思いますか)
答えはない。
ただ、風が障子を鳴らした。
その音はまるで、遠くから父が語りかけるようだった。
――「啓之助、斬られたのがお前でなくて良かった」
胸の奥が痛んだ。
その言葉は、いつも自分を生かし、同時に縛り付けている。
生きてしまった者の責務。
それが、彼に仇討ちを続けさせているのだ。
ふと、戸口の方から声がした。
「起きてるか、坊ちゃん」
斎藤だった。
「……ええ」
「一つ忠告をしに来た」
そう言って、斎藤は柱に背を預けた。
「聞いた話じゃ、広島で伊東さんが勤王思想と長州容赦を説いてるらしい。ま、戻ってきたら一波乱あるな。伊東さんと仲良しこよしのお前さんも身の振り方を考えるべきだ」
「……新選組は、どうなるでしょう」
「どうもならん。いつも通り、誰かが血を流して決着をつける。それだけだ」
淡々とした声。だが、その声はどこか寂しげだった。
啓之助は問い返した。
「斎藤さんは、伊東さんと近藤さん、どちらが正しいと思いますか」
「俺はな、正しいより“生き残る方”を選ぶ。理屈で世の中は回らねえ。いつだって勝った者が正しい、それだけだ」
その現実の言葉に、啓之助は何も返せなかった。
理想と現実。志と血。
その狭間で、人はもがき続ける。
外では雪が降り始めていた。
その音を聞きながら、啓之助は心の中でそっと誓った。
――もう一度、河上彦斎に会わねばならない。
己の復讐心に決着をつけるため、そして自分自身の答えを見つけるためにも。
灯が、ゆらりと揺れた。
まるで啓之助の心のように寄る辺もなくゆらゆらと。




