第四十三話 小さき灯火
太陽が雪を溶かすよく晴れたある朝、屯所の玄関先がひときわ賑やかだった。
原田左之助が、生まれたばかりの長男――茂を連れて現れたのだ。
いつものように胸を張り、豪快に笑うその姿も、今日はどこか柔らかい。
腕の中の小さな命が、彼の頬に陽だまりのような優しさを落としていた。
「どうだい、うちの坊主。可愛いだろう?」
原田が誇らしげに笑うと、周りの隊士たちはどっと笑い声を上げた。
「なんだ、原田がこんな顔するとはなあ」「親馬鹿ってやつだ」
誰かの冷やかしに、原田は「うるせえ」と笑い飛ばしながら、赤子を抱き直した。
その輪の中に啓之助は何気なく入った。
彼はそっと一歩近づき、赤子を覗き込んだ。
原田の息子・茂は、まだ世界のすべてを夢の中に見るような顔で、すやすやと眠っている。
その頬は柔らかく、肌は白磁のように滑らかだった。
啓之助は、見ているうちに胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「お、坊ちゃん。俺の倅、抱いてみるか?」
原田が何気なく言った。
啓之助は驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷く。
「……はい。よろしければ」
原田が赤子をそっと渡すと、啓之助はまるで壊れ物を扱うように慎重に抱きとった。
小さな重みが、腕から胸へ、そして心臓の奥へと静かに染み込んでいく。
赤子の息づかいが、衣の内をくすぐった。
ふわりと香る乳の匂いに、啓之助は喉の奥が詰まる。
「……あたたかいですね」
ぽつりと漏らした声は、かすかに震えていた。
原田が優しく笑う。
「当たり前よ。命ってのは、どいつも熱いもんだ」
啓之助は目を伏せた。
この小さな温もりを抱いていると、ふいに父の顔が浮かんだ。
佐久間象山――いつも厳しく、遠い背中だった。
だが今なら、ほんの少しだけ理解できる気がする。
あの人も、こんな風に自分を抱きしめたのだろうか。
首も座らない幼い日の自分を、こうして胸に抱いて――。
気づけば、頬を一筋の涙が伝っていた。
啓之助は慌てて袖で拭うが、涙は止まらない。
「おいおい、坊ちゃん。どうした?」
原田が慌てたように笑う。
「いえ……少し、父のことを思い出しまして。父もこんな風に自分を抱いてくれたのかもと……」
「象山先生か。……そっか」
原田はしばらく啓之助を見つめ、それから静かに言った。
「自分の子は可愛いもんだ。豪胆で通ってた俺の顔を見てみろ、倅の可愛さにたるんでやがる。象山先生のこたぁよく知らねぇが、きっと俺と同じ顔をしていたに違いねぇ」
その言葉に、啓之助の胸が締め付けられた。
象山が、最後に残した言葉。
――『啓之助……斬られたのがお前でなくて良かった……』
あの言葉の意味を、今ようやく心で理解した気がした。
それは、思想でも教義でもない。
ただの父の、息子を思う一心だった。
涙が、またひとつこぼれる。
しかしその涙の奥には、あの日とは違う温もりがあった。
――父上。
俺は、あなたの仇を忘れてはいない。
けれど、あなたの愛も、忘れてはいけないのですね。
赤子に向けて原田が微笑む。
その笑みは、遠い記憶の中で見た父の顔と重なったような気がした。
冬の清々しい風が幸せな風景を包み込む。
その光の中で、啓之助は静かに微笑んだ。




