第四十二話 父の声、満月の夜に
夜の京は、雨上がりのようにしっとりと静まり返っていた。
歩く啓之助の足音が、やけに遠く響く。
胸の奥では、何かが崩れ落ちていく音がしていた。
——宮部鼎蔵は、自害していた。
つまり、河上彦斎が求めていた「仇」は存在しない。
ならば、自分の「仇」は?
父・佐久間象山を斬った男、河上彦斎——。
あの冷たい目と、最後に見せた哀しみを帯びた表情が頭から離れない。
(……あの人に、真実を伝えなければ)
啓之助は約束していた満月の夜に西本願寺の屯所を抜け出した。
幸運にも今日は斎藤が夜の巡察を率いており、祇園方面に行かなければかち会うこともない。
煌々と光る月は雲に隠れ、京の街は闇に沈んでいる。
巡察の隊が通らぬ裏道を選び、啓之助は約束の竹藪へと向かった。
竹藪の中には、既に河上彦斎がいた。
闇の中で、かすかな月の光の明かりにその横顔だけが浮かび上がる。
啓之助を見ると、彼は穏やかに口角を上げた。
「逃げずに来たか。……結果は?」
啓之助は頷き、深く息を吸った。
「宮部鼎蔵は……誰にも斬られていません。喉を自ら突いて果てたそうです」
「……自害」
彦斎の目が、かすかに揺れた。
「検分に立ち会った医師がそう証言しました。喉の傷は、明らかに自ら突いたもので、人に付けられたものではないと」
啓之助は一枚の紙を差し出す。
「証言者である医師の多賀谷源助に検分結果を記載してもらいました。彼にこの紙を見せて事実確認していただいても構いません」
しばしの沈黙が流れた。
お互い身動きもせず、耳鳴りがしそうなほど静寂に包まれた。
彦斎は目を閉じ、唇を結んだ。
「いいや。そこまで言うなら本当の事なのだろう。……そうか。宮部さんが……自ら……」
その声には、怒りでも悲しみでもない、深い諦念が滲んでいた。
長い沈黙ののち、彦斎は小さく笑った。
「律儀な男だった。己の志に殉じたのだな」
そして、啓之助をじっと見つめる。
「約束は約束だ。お前と正々堂々と戦ってやろう」
啓之助は唇を噛み、俯いた。
胸が焼けるように熱い。
父の仇。その相手が、今こうして自分の目の前にいる。
だが、彦斎の眼差しには殺気がない。
むしろ、哀しみの色さえ宿っている。
「そして、もう一つの約束だ。お前の父の最期の言葉を伝えるとも言ったな」
啓之助が顔を上げる。
雲間から覗く月の光に照らされた彦斎の横顔は、いつになく静かだった。
「象山は斬りつけられた後にこう言っていた。『啓之助……斬られたのがお前でなくて良かった……』」
啓之助の呼吸が止まった。
頭の中が真っ白になる。
「そんな……あの父上が……?」
「象山は最期まで、お前のことを案じていた。
己の死を悟ってなお、考えていたのは自分の死ではなく——お前の未来だった」
その言葉に、啓之助の視界がにじむ。
熱いものが頬を伝い、拳を握っても止まらない。
葬式の日、涙一つ流れなかったあの日の自分が遠くに思えた。
「……父上……」
啓之助はその場に膝をつき、大粒の涙で土を濡らした。
彦斎は霞む満月を見つめたまま、静かに言った。
「仇を前にして、父の言葉でうずくまるか……。俺が言う資格はないが、お前に仇討ちは向いてない」
啓之助は何も言えず、ただ夜風に身を晒した。
月が再び顔を出し、二人の影が藪に伸びる。
やがて、彦斎は背を向ける。
「もう会うこともあるまい。……お前は、自分の道を行け」
「待ってください!」
思わず声を上げるが、彦斎は振り返らない。
闇に消えていく背中が、啓之助の目に焼き付いた。
胸の奥で、何かがはっきりと終わった気がした。
そして同時に、何かが静かに始まったようでもあった。
夜明け。
啓之助は一人、西本願寺へと帰る道を歩いていた。
空の端が白み、京の町がゆっくりと目を覚ます。
(私に仇討ちは向いていない……分かってる……分かってるさ)
啓之助の頭に浮かぶのは幼い自分を愛おしげに撫でる父の顔。
そして、その父の命が無残にも奪われたという事実。
その理不尽に心臓は激しく怒りの声を上げ、頭は沸騰しそうな程に血が湧き上がる。
(それでも私は……)
啓之助の流した涙が、冷たい朝の風に溶けていった。




