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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第四十一話 あの夜の真実

 西本願寺の夜は静かだった。

 遠くで読経の声がかすかに響き、風が灯明を揺らす。

 啓之助は机に肘をつき、蝋燭の炎の向こうに広げた紙をじっと見つめていた。

 墨の染みた記録用紙の端に、小さく書かれた文字がある。


 ——池田屋取調書。


 彼はそこに記された名を何度も目で追った。

 突入した隊士、援軍の隊士、その後駆けつけた会津藩と桑名藩。

 だが、どこにも「宮部鼎蔵を誰が討ったか」は記されていない。


 啓之助は唇を噛んだ。

 (……永倉さんは一階、近藤さんと沖田さんは二階。けれど、誰も宮部鼎蔵を斬ったとは言わなかった)


 沖田は暑気あたりで倒れ、戦いの記憶が曖昧。

 永倉は「暗くて誰を斬ったかなんて分からない」と断言。

 近藤は「誰がどの藩か、そんな事を見る暇はなかった」と言った。


 では、手がかりは何だ。

 啓之助の頭の中で、無数の断片が組み合わされていく。


 ——場所だ。


 (宮部鼎蔵の遺体がどこにあったのか。二階なら近藤さん、一階なら永倉さんが討った可能性が高い)


 啓之助は蝋燭の炎を見つめながら、頭の中で隊の記録庫を思い返した。

 池田屋事件の検分を担当した人物——。

 (確か、町医の……多賀谷源助)


 啓之助は小さく頷いた。

 (あの医者なら、遺体の状態も、運び出された順番も覚えているはずだ)


 だが問題が一つ。

 今の彼には、常に付きまとう影がある。


 斎藤一。


 ——土方の命を受け、啓之助の行動を見張る監視役。

 ここ数日、屯所の外に出るたびに、必ず斎藤の気配があった。


 (……撒かねばならない)


 啓之助は机の上の帳簿を閉じると、静かに立ち上がった。

 そして筆でさらさらと紙を一枚書きつける。


 「屯所外の呉服商“吉の屋”支払い確認のため外出」


 帳場の記録簿にその紙を貼り付け、懐に同じ帳簿の写しを入れる。

 完璧な口実だ。


 夜、門を出ると、予想通り背後にかすかな足音。

 啓之助はゆっくりと歩き出し、島原の方向へ向かう。

 途中、茶屋に寄り、番頭と軽口を交わす。


 「お侍さん、えらい律儀に来はりますなあ。吉の屋さんも安泰や」


 「ええ、支払いが遅れると副長に叱られますから」


 (——聞こえただろ、斎藤さん)


 茶屋を出て、啓之助は裏通りに抜けた。

 その先で、静かに足を止める。


 「……尾けるなら、もう少し呼吸を殺したほうがいいですよ、斎藤さん」


 背後の闇から笑い声がした。

 「はは、よく鼻が利くな。まるで犬みてぇだ」


 「今日は仕事です。遊びじゃありません」

 「仕事、ねえ。支払いの確認にしては念が入りすぎじゃないか?」


 啓之助は肩をすくめた。

 「帳簿と金の話は、確実にしておかなければ言った言わないの水掛け論になりがちですからね」


 「なるほど」

 斎藤はそれ以上は追及せず、肩を揺らして笑った。

 「まあ、真面目な坊ちゃんが悪さするタマじゃねぇことは分かってる」


 「ご安心を」

 啓之助は軽く頭を下げ、茶屋の角を曲がった。

 角を曲がると同時に、懐から小石を取り出して投げる。

 小石は裏路地の桶を弾き、反対方向に音を立てた。


 ——足音がそちらへ逸れる。


 啓之助はその隙に裏道を駆け抜け、寺町通へと向かった。

 そこに多賀谷源助の診療所がある。




 「夜分にすみません」

 戸口から声をかけると、灯を手にした老人が現れた。

 「おや、お若いのに……珍しいのう。お怪我か?」


 「いえ。少し、お聞きしたいことがありまして」


 啓之助は丁寧に頭を下げ、茶を出されるままに腰を下ろした。

 「私は新選組の関係者です。池田屋事件の折、先生が検分をされたと伺いました。池田屋の検分の話を伺いたく」


 多賀谷はしわの刻まれた口元を緩めた。

 「ああ、あの夜か。忘れようにも忘れられん。

 一番印象に残っているのはな。上から運ばれてきた仏さんの中に、喉を裂かれた男がおった。

 会津の侍らが……たしか“宮部鼎蔵”と呼んでおぅてのぉ」


 「……上から、というのは、二階から運ばれたということですか?」


 「そうじゃ。あの仏さんは二階で息絶えておった。腹も胸も無傷で、喉だけ深う斬れてな」


 啓之助の胸が凍りつく。

 (——二階。近藤さんのいた場所……)


 「やはり……近藤さんが——」


 小さく呟いたその言葉を、多賀谷が遮った。

 「待ちなされ。あれは他人に斬れる傷やなかった」


 「え……?」


 「人が人の喉を、あそこまで真っ直ぐ突くのは無理や。

 あの傷口は、刀を自分の手で当てて、力任せに突っ込んだもんじゃ。

 つまり——自害じゃよ」


 啓之助の呼吸が止まった。


 炎が揺れ、畳の影が広がる。

 音もなく時間が流れた。


 「……自害?」


 「うむ。潔い最期じゃった。あの目は恐怖や悔いじゃなく、覚悟の色をしておった」


 啓之助は膝の上の拳を固く握りしめた。

 頭の中で、彦斎の言葉が甦る。


 ——池田屋で宮部鼎蔵を殺したのは誰だ。


 (……誰もいない。宮部鼎蔵は、自ら命を絶った……。つまり、河上彦斎の“仇”など、最初から存在しなかった)


 体の奥が冷えていく。

 憎しみも、目的も、いま崩れ落ちた。

 啓之助はそのまま、夜の通りに出た。


 秋風が吹き抜け、灯籠の火が揺れる。

 彼の瞳に映る炎は、静かに揺らめきながらも、決して消えなかった。


 ——真実を知った今、河上彦斎にどう伝えるのか。

 それが、啓之助に課せられた次の答えだった。

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