第四十話 交わされる二枚舌
昼下がりの西本願寺は、残暑の中で蝉の声が最期の力を振り絞り絶え間なく響いていた。
中庭の地面を撫でる風が熱を含み、どこか息苦しい。
啓之助は帳場の手伝いをしていたが、ふと背後から気配を感じた。
「そんなこんまい仕事をよくやるねぇ」
声の主は、斎藤一だった。
いつものように微笑を浮かべ、無造作に刀を脇に立てかける。
「綺麗な字だねぇ。几帳面っていうのか、武士より書家向きじゃないか?」
啓之助は筆を置き、軽く笑みを返した。
「褒めても何も出ませんよ、斎藤さん」
「はは、そりゃ残念。期待してたのに」
軽口を叩くその声の奥に、わずかな棘があった。
斎藤は卓の上に置かれた書類を一瞥すると、何気ない調子で言う。
「ところで……副長が言ってたぜ? 坊ちゃん、最近よく外に出てるそうだな。隊内でも色々と嗅ぎ回ってるとか……」
——やはり。
啓之助の胸がひやりと冷えた。
土方の密命だ。監視の目が、もう差し向けられている。しかも、わざわざ斎藤を指名したところから土方の本気を感じる。
「ええ。新入隊士が町で迷惑をかけてないかを調べております。不逞浪士の噂も多いですし」
「ふぅん……“不逞浪士”ね」
斎藤は縁側に腰を下ろし、陽の光に目を細めた。
「はてさて、君がそんなことを調べる必要はないと思うが?」
啓之助は、ほんの一拍の沈黙の後、落ち着いた声で答える。
「学問の癖ですよ。人の言葉や動きを観察して、そこから道理を拾うのが好きなんです」
「なるほど、象山先生の血筋ってやつねぇ」
その名を出された瞬間、啓之助の背筋が固まる。
斎藤は気づかぬふりをし、淡々と続けた。
「俺は君と違って血筋も学も無いからな。理屈よりも刀の方が性に合う。でも、君を見てると“理屈も悪くない”と思えてくる」
「……それは褒め言葉と受け取っておきます」
「褒めてるとも。俺はね、頭の回る奴が好きなんだ。特に、何かを隠してる奴が」
その一言に、啓之助の心臓が跳ねた。
視線を逸らせば終わりだ。
ゆっくりと呼吸を整え、努めて穏やかに答える。
「隠し事、ですか。みんな何かしら持ってるでしょう。
誰にだって……言えぬことの一つや二つ、あります」
「だろうな」
斎藤は笑った。けれど、その笑みはどこか試すようだった。
「副長が言ってた。“あの坊ちゃんは、時々目が鋭い刃になる”って」
「……恐れ多いことです」
「いや、悪い意味じゃない。目の奥に芯がある。そういう奴は、見てて飽きねぇ」
沈黙。
蝉の声だけが、遠くでじりじりと鳴いていた。
斎藤は立ち上がると、縁側から光の中へ歩き出した。
「俺は君を監視してるわけじゃねぇ」
そう言って振り返る。
「ただ、“もし何かするなら”上手くやれ。
しくじると、副長は情けをかけねぇからな」
その言葉は警告にも、励ましにも聞こえた。
啓之助は一礼したまま、顔を上げられなかった。
斎藤の足音が遠ざかる。
啓之助は筆を握りしめ、深く息を吐いた。
(……気づかれている)
だが、斎藤のあの口ぶり。完全に敵というわけでもない。
(あの人は、僕を試している。危険に踏み込んでなお、それをいかに周りに悟らせないか。その手腕を)
外では蝉が鳴き止み、風が流れた。
その風の中に、土方の影と斎藤の気配がまだ残っている気がした。
——この屯所は、すでに“監視の檻”だ。
それでも、啓之助は歩みを止めなかった。
父の最後の言葉を教えてもらうまで、どれほど鋭い刃が待っていようと。




