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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第四話 近藤勇という男

 午下がり、八木邸の庭に乾いた竹の音が続いた。若い隊士が輪をつくり、沖田が笑い混じりに打ち据える。土の匂いと汗の塩気が立ちのぼり、遠くで烏が鳴く。

 その輪の真ん中、三浦啓之助は肩で息をしながら竹刀を握り直した。指先はまだ震えている。誰かが「もう一本」とせき立てたとき——


 「おう、お前さんが三浦啓之助かい」


 声は太く、ひと声で場の温度を二度ほど上げた。

 現れた男は背丈はさほどでもないが、がっしりと詰まった体つきをしていた。日に焼けた褐色の肌に、丸い大きな目。口元はいつも笑いに割れるのか、頬のあたりに柔らかい皺が刻まれている。浅葱の羽織は汗じみ一つ恐れぬ様子で、腰の刀は実用本位、飾り気がない。歩みはどこか弾むようで、草履の音まで朗らかだった。


 輪の内外が自然と割れた。土方が腕を組んだまま軽く顎を引く。沖田は竹刀を肩にひょいと担ぎ、目だけで嬉しそうに笑った。


 男はまっすぐ啓之助の前に来ると、躊躇なく肩を叩いた。叩く、というより抱き寄せる勢いである。

 「よう来た、よう来た! 象山先生のご子息だってな。はは、こりゃめでてぇ。うちみたいな汗臭い小屋に、ようぞ足を運んでくれた」


 掌は温かく、重い。叩かれた肩から、妙な安心が骨に染み込んでくる。

 男は新選組局長、近藤勇。新選組の大将である。


 「……もったいないお言葉です」


 「何がもったいないもんか。先生はよう働くお人で、俺ぁ遠くからでも噂を聞いちゃいた。学と胆、どっちもある。そういうの、俺は好きでねえ」

 近藤は朗らかに笑い、周りへ向かって大仰に手を広げた。

 「おいみんな! この若ぇのは佐久間象山先生の息子さんだ。大事にしろよ。……いや、大事にした上でしっかりしごいてやれ!」


 「結局しごくんじゃないですか」

 沖田が肩をすくめると、笑いが起きた。その中で土方だけが微かに口元を動かしただけで、視線は啓之助を測るように冷たい。


 近藤もひとしきり笑うと、啓之助の竹刀を取り上げた。節の並びを眺め、握りを確かめ、うむ、と頷く。

 「手が綺麗だ。豆はこれからだな。けど目はいい。怖い怖いって引っ込む目じゃない。よし、総司」


 「はい」


 「三本。軽く合わせてやんな。見るのは形じゃねぇ、息だ」


 沖田の竹刀がふわりと上がる。三合、風のような速さで交わると、近藤はすぐに手を挙げて止めた。

 「いいよし。……三浦君、息が上ずる前に止めたろ? それでいい。続けて倒れるより、残す方がいいこともある。生き残る稽古を覚えな」


 啓之助は思わず背筋を伸ばした。土方の厳しさとは別種の、土の匂いのする言葉。叱咤でなく、体に沁みる助言。

 「は、はい」


 近藤は満足げに笑って、今度は声を落とした。

 「それとな、先生の名は俺にゃ光だ。……だからって、お前を看板にするつもりはねえ。看板は風に飛ぶ。要るのは柱だ。柱は黙って屋根を支える」


 言ってから、照れたように後頭を掻く。

 「おお、らしくねえこと言ったな。(とし)笑われる」


 「別に」

 土方は短く返す。だが口元のかすかな笑いは否めない。


 近藤は啓之助の襟をさりげなく直し、結び紐の緩みを指で締めた。指は節くれ立ち、しかし丁寧だ。

 「腹が減ったろ。八木さん家の台所で飯をもらえ。おい藤堂、案内してやれ」


 「はいよ、局長」

 観衆から抜け出た藤堂が軽く手を挙げる。


 啓之助は一礼して歩き出しかけ、ふと立ち止まった。

 「……局長。私に、仇討ちができるでしょうか」


 問いは浅くも、沈む石の重さがあった。

 近藤はにかっと歯を見せた。

 「できるとも。できるように君を強くさせるのが、俺たちの役目だ。なぁ?」


 問いは輪へ向けられ、笑いと掛け声が返る。

 その重なりの中に、啓之助はほんのわずかな居場所を見つけた気がした。

 だが同時に、胸の底で別の棘が動く。自分が今、丁重に扱われているのは、象山の子だからだ。人としてではなく、名のために。


 台所へ向かう背に、近藤の声が追いかけた。

 「三浦君。先生のことを、時々でいい、俺に話してくれ。どういうふうに笑い、どういうふうに怒ったのか。学の話は難しいが、人の話は好きだ」


 「……はい」


 返事は小さく、しかし確かだった。

 藤堂が横で囁く。「局長はああ見えて、学問に憧れがあるんだ。だから、君には甘いよ」

 啓之助は曖昧に笑う。甘さの陰にある期待の重さを、肩にひしひしと感じながら。


 振り返ると、庭では近藤が輪の中へ入っていた。

 「さぁ、俺もたまにゃ身体を動かさないとな。——歳、見てろよ。俺の面、まだ取られちゃいねぇ」

 笑いながら構える姿は、豪胆というより、どこか無邪気な子どものようでもある。だが、竹刀が一度上がれば、その場の気配は一枚引き締まる。笑顔の下に、隊を束ねる親分の勘と、土の根のような粘りが見えた。


 その日、壬生の空は高く、雲は白かった。

 啓之助は茶碗の飯を口に運びながら、自分の中に生まれつつある二つの感情を噛みしめる。

 一つは安堵。ここでなら生き方を教えてもらえるかもしれないという、温かな期待。

 もう一つは不安。名に寄りかかる自分はそれに見合った人間なのかという、冷たい予感。


 笑い声が庭に弾み、竹の音がまた乾いて鳴った。

 新選組という家の屋根の下で、柱になれるかどうか——その問いは、まだ答えを持たなかった。

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