第三十九話 鬼の眼
残暑に茹だる西本願寺の屯所。
夕暮れの回廊を、啓之助は巡察帰りの足で歩いていた。
西日に照らされた格子戸の影が、床に縞模様を落とす。
その影の中に、ひときわ濃い影が立っていた。
「三浦」
振り向くと、土方歳三がいた。
薄闇に沈む顔には表情がなく、ただ鋭い眼だけが光っていた。
「話がある。来い」
その声に、啓之助の背筋が粟立った。
逃げられない。
そう悟った瞬間、喉が乾く音まで聞こえそうだった。
——副長の呼び出しに逆らえば、その先は地獄だ。
「はい……」
案内されたのは土方の執務室だった。
薄暗い部屋に灯された行灯の火が、畳をぼんやり照らす。
机の上には書類が整然と並び、その端に湯呑が一つ置かれている。
土方はそれに口をつけもせず、腕を組んだまま啓之助を見据えた。
「最近、お前……色々出歩いて何かを嗅ぎ回ってるそうだな」
「え……」
「島原の方にも顔を出していたと聞いた。……何の用だ」
啓之助の心臓が一瞬止まる。
(誰が見ていた? まさか、あの揚屋の者が……)
だが、啓之助の頭の中に別の顔が浮かぶ。
斎藤一。
(つけられてた……のかもしれない……)
すぐに表情を整える。
「新入りたちが島原で派手な遊興していると聞きまして。新選組の名に泥を塗らぬよう、見回りをしておりました」
「ほう……見回りを?」
土方は無表情のまま、机の上の筆を指先で転がす。
その音がやけに大きく響く。
「見回りにしては、妙な話を集めていたようだがな。“肥後訛りの浪士”を探していたとか」
啓之助の背に、冷たい汗が伝う。
土方の目は笑っていなかった。
いや、そもそも笑うという行為がこの男に存在するのか疑わしい。
「……島原に出入りする浪士に、怪しい者がいないかを——」
「言い訳はいい」
その声が、畳を震わせた。
筆が机を転がり、床に落ちる。
「お前、最近妙に目が座ってる。誰かの指図で動いてんじゃねぇだろうな」
沈黙。
呼吸すらできないほどの圧。
土方の視線が啓之助の胸を貫いていた。
この男には、心の奥まで覗かれている気がする。
啓之助はゆっくりと頭を下げた。
「恐れながら……私はただ、己の未熟を補うために、微力ながらできることを探し行動しているだけです。
今の京は治安も悪く、血の匂いで満ちています。それを正し律する事こそが、我々新選組の成すべき事だと信じています」
土方は微動だにしない。
行灯の火がぱちりと弾け、影が揺れる。
しばらく沈黙が流れたのち、土方は低く言った。
「……口が上手ぇな。まるで御用聞きの役人みてぇだ」
皮肉とも試しとも取れる声音。
啓之助は息を殺して答える。
「副長の教えを学ばせていただいた結果です」
「へぇ……。俺の教えを、な」
土方の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
その笑みは、怒りよりも恐ろしいものだった。
「忘れるな。新選組は“理屈”じゃ動かねぇ。“誠”で動く。
お前の理屈が、この組の掟に逆らうようなら——斬るぞ」
声は静かだった。だが、刃より鋭い。
「……心得ております」
やっとの思いで言葉を返した。
土方は啓之助をじっと見つめたまま、やがて筆を拾い上げた。
「下がれ。次の巡察は明後日だ。遅れるな」
「はっ」
襖を閉めた瞬間、啓之助は膝が震えた。
(……危なかった)
廊下に出ると、夜風が頬を撫でた。
啓之助は拳を握る。
(土方さんには……少しの隙も見せられない)
遠くで虫の声がした。
それはまるで、夜そのものが啓之助の胸に忍び寄ってくるようだった。




