第三十八話 真実は遠く
夏が終わりに近づいても、西本願寺の空気は熱を含んでいた。
日中は蝉の声、夜は遠くから虫の音が響く。
屯所の廊下には、書状を抱えた隊士たちが行き交い、掛け声と足音が絶えなかった。
かつて壬生の小さな屋敷にひしめいていた頃とは違う。
今の新選組は、京の治安を預かる大組織だった。
啓之助はその喧噪の中を歩きながら、胸の内の焦りを抑えていた。
(永倉さんからも、沖田さんからも確かなことは得られなかった……)
(残るは——近藤局長だけだ)
だが、容易には近づけなかった。
局長室の前には、いつも誰かが控えている。
連日報告や許可の文が届き、近藤は朝から晩まで執務に追われていた。
さらに、その隣には常にあの男がいた。
——土方歳三。
啓之助は襖の陰から、何度も二人の姿を見かけた。
近藤が筆を執る横で、土方は無言のまま文書を整理し、時折短く指示を出している。
その横顔には一分の隙もなかった。
もし今ここで不用意に近藤へ話しかければ、すぐに土方に悟られる。
その確信が啓之助の足を止めさせた。
「三浦君、書類の写しは終わったのかい?」
背後から声をかけられ、啓之助は我に返る。
伊東甲子太郎が穏やかな笑みで立っていた。
「はい。これから副長の机にお届けします」
「ご苦労さま。……少し、顔色が優れないね」
「いえ、少々寝不足なだけです」
伊東はそれ以上追及せず、軽く頷いた。
その柔らかさが、逆に啓之助の胸を締めつけた。
(私は今、新選組を裏切っている。伊東先生のような方に……私はもう、何も打ち明けられない)
夜。
執務を終えた土方と近藤が廊下を歩いてくるのを見かけた。
近藤は笑いながら何かを話し、土方は短く相槌を打っている。
その光景は、まるで兄弟のようだった。
——あの二人の間に、どんな言葉を差し挟めるというのか。
啓之助は廊下の影に身を潜め、二人が去るのを見送った。
(近藤局長は、気さくでいい方だ。だが……あの夜、宮部鼎蔵を斬ったのが局長だったとしたら?)
心がざわめいた。
河上彦斎の敵と、憧れの上司が重なる可能性。
彦斎は親友の仇を絶対に逃さないだろう。例え、それが新選組の局長で新選組全体を敵に回すとしても。
その思考を自分で打ち消すように、拳を握る。
——信じたい。だが、確かめなければならない。
翌朝。
屯所の裏手で、近藤が刀の手入れをしていた。
珍しく一人だった。
啓之助は深く息を吸い、意を決して歩み寄る。
「局長」
「おう、三浦君か。どうした?」
振り返った近藤の顔は、汗に濡れてもなお朗らかだった。
「いえ、過去の事件について詳細をまとめておりまして……少し、池田屋の件を確認したく」
その言葉に、近藤の手がわずかに止まった。
だが、次の瞬間には穏やかに笑った。
「池田屋か。懐かしいな。あれで新選組の名が京に響いたんだ」
「はい。ですが……あの夜、佐幕派であるはずの肥後藩の浪士も混じっていたという話を耳にしまして」
「肥後?」
近藤は顎に手を当て、少し考えるふうを見せた。
「うむ、いたかもしれんな。だがあの夜は戦場だ。誰がどこの藩の者か、いちいち見ちゃおらん」
「そう、ですか……」
その時、襖の向こうから低い声が響いた。
「近藤さん。巡察報告の確認を」
——土方だ。
近藤が立ち上がり、啓之助に笑みを向ける。
「すまんな、話はまたにしよう」
そのまま部屋を出ていく。
土方が一瞬、啓之助の顔を横目で見た。
何かを測るような、冷ややかな目だった。
啓之助は膝の上で拳を握りしめた。
(これ以上は危険だ……下手をすれば、疑われる)
静まり返った部屋に、風が通り抜けた。
机の上の紙が一枚、ふわりと舞い上がる。
啓之助はその紙を押さえながら、心の奥底で呟いた。
(それでも、私は確かめなければならない。そうしなければ……)
啓之助の頭に父の大きな背中が思い浮かぶ。
(父の最後の言葉さえ聞くことができない)
その決意は、静かに、しかし確実に固まっていた。
もう後戻りはできない——。




