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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第三十五話 二つの顔

 西本願寺の広い回廊に、夕暮れの光が差し込んでいた。

 鐘の音が遠くで響き、一日の終わりを告げている。

 啓之助は門をくぐり、静かに屯所へ戻ってきた。


 衣の裾は泥にまみれ、肩には竹の葉が貼り付いている。

 右の頬には赤黒い痣が浮かび、指の節も腫れていた。

 廊下を歩くたび、足の筋肉が悲鳴を上げる。


 「おい」


 低い声が背後からかかった。

 振り返ると、斎藤一が柱の陰にもたれて煙管を咥えていた。

 その鋭い眼光が、薄闇の中で狼のように光る。


 「……斎藤さん」


 「えらく汚れてるな、坊ちゃん。どこで転げ回ってきた?」

 煙を吐きながら、斎藤はじっと啓之助の姿を観察している。

 声の調子は淡々としていたが、その視線には探るような鋭さがあった。


 啓之助は一瞬だけ目をそらした。

 「……稽古の時に、ちょっと足を滑らせただけです」


 「ふぅん?」

 斎藤は一歩、近づいた。

 「足滑らせてできる痣にしちゃ、ずいぶん深いな」

 啓之助は何も言えず、俯いたまま帯を握りしめた。


 「顔も、拳もだ。稽古ってより、誰かとやり合ったんじゃねぇのか?」

 「……そんなことはありません」

 「へぇ。まぁ、そういうことにしとこう」


 斎藤はそれ以上追及せず、煙管の煙を細く吐き出した。

 だがその目だけは、啓之助の奥底を覗き込むように光っていた。


 「坊ちゃん、俺は無駄な詮索はしねぇ主義だ。けど一つだけ言っとく」

 「……なんでしょう」

 「“隠す”ってのは、剣よりも難しい。バレねぇようにするなら、呼吸から変えろ」


 その言葉を残し、斎藤は背を向けて歩き去った。

 軽い足取りの裏に、冷ややかな警戒の気配が残る。


 啓之助はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

 (……勘付かれている)


 斎藤一は、組の中でも最も洞察に長けた男だ。

 軽口を叩きながらも、誰の嘘も見逃さない。

 彼の目の前で取り乱せば、すぐに土方の耳に届くだろう。


 ——新選組の中で攘夷志士の仇を探すなど、狂気の沙汰だ。

 ——知られれば、良くて切腹。悪ければ、拷問の末に惨殺。


 背筋を冷たい汗が伝った。

 啓之助は震える手で着物の袖を握り、深く息を吸い込んだ。


 (ここで怯えたら終わりだ。……父の仇を討つためには、どんな嘘でも、どんな顔でも演じてみせる)


 その決意を刻むように、啓之助は顔を上げた。

 西の空は朱に染まり、鐘の音がまだ遠くで響いている。


 廊下を歩き出すと、すれ違った若い隊士が軽く会釈をした。

 啓之助は普段通りに会釈を返した。

 (そうだ……いつも通りでいい。怪しまれず、静かに、裏から探るんだ)


 彼の脳裏に、河上彦斎の冷たい声が蘇る。

 ——「誰が仇か、内側から探れ」


 その言葉が、再び心の奥をえぐった。




 夜。

 灯明の下、啓之助は足音を殺して文書庫に向かい、池田屋事件の記録を探した。

 ——池田屋事件、新選組の出動記録。

 池田屋に斬り込んだのは、近藤率いる十名。

 近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、武田観柳斎、谷万太郎、浅野薫、安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門。


 記録には池田屋に突入したのは、近藤、沖田、永倉、藤堂の四人。

 武田、谷、浅野は入口を固め、奥沢、安藤、新田は裏口を固めた。

 池田屋突入後、藤堂は飛び出してきた敵に斬られ額に傷を負い戦線離脱。

 浪士達は襲撃に対して裏口に押し寄せて奥沢が死亡。安藤、新田が重傷。(のちに死亡)


 後に土方隊が合流し捕縛作業に入った。

 更に会津藩、彦根藩が合流し、京の町医者 多賀谷源助を呼び死体検分が始まった。


 啓之助は記録を頭に叩き込んだ。


 (宮部鼎蔵を斬ったのは、誰だ……。可能性が高いのは突入部隊の四人。でも、藤堂さんは怪我で早々に戦線離脱している。そうなると、残るは近藤局長、沖田さん、永倉さん)


 胸が締めつけられ、息が苦しくなる。

 仇討ちをしようと決めたはずなのに。

 今は、敵に売る人物が仲間たちであるという現実が重くのしかかった。


 啓之助は顔を上げ、蝋燭の炎を見つめた。

 その炎は小さく揺れ、今にも消えそうだった。

 ——まるで、自分の中の誠が試されているようだった。


 (俺は、誠を捨ててでも父の仇を討つのか……それとも、誠を貫いて父を忘れるのか)


 答えのない問いを抱えたまま、啓之助は記録を仕舞い、静かに息を吐いた。

 その夜、彼は初めて“新選組の隊士”としてではなく、“佐久間象山の息子”として目を閉じた。


 夜風が障子を揺らし、行灯の炎が一瞬だけ強く揺れた。

 ——二つの影が、彼の中でせめぎ合っていた。

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