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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第三十四話 生きるか死ぬか

 「あたるまえたい。——おまえの(とう)ば斬ったとは、俺たい」


 その声は静かだった。怒鳴りも、脅しもない。ただ、凍るような確信だけがそこにあった。

 啓之助の頭の中で何かが弾けた。音が遠のき、景色がゆがんだ。


 「な……何を……言って……」

 喉がひきつる。言葉にならない息がもつれる。

 彦斎は一歩も動かず、静かに啓之助を見つめていた。


 「信じられないか? けれど事実だ。お前が追っていた“肥後の浪士”は、この俺だ」

 その穏やかな口調が、啓之助の怒りに油を注いだ。

 胸の奥から煮えたぎるような熱がこみ上げ、指が震える。


 「貴様が河上彦斎……!父の仇……!」

 「待て、斬りかかる前に名乗るのが礼儀だろう」

 「……三浦啓之助」


 彦斎は目を細めた。

 「啓之助か。やはりな。……あの目だ。あの佐久間象山の息子なら、その目をするはずだ」


 啓之助は一歩踏み出した。怒りと憎悪で頭に血が上る。

 「貴様……貴様だけは、許さない!」

 刀の柄に手をかける。だが、彦斎は動かない。


 「ここで刀を抜けば、寺の者が騒ぐぞ。坊主も門徒も押し寄せる。聖域を血で穢したくないだろう」

 その言葉が筋を通していると分かっていても、啓之助の怒りは止まらなかった。

 「なら、どこでだ!」


 彦斎は微かに笑みを浮かべ、背を向けた。

 「——あの竹藪の中だ。初めて会った場所。あそこなら、誰にも邪魔されない」


 風が吹き、寺の木々がざわめいた。

 二人は言葉を交わさぬまま、境内を抜けて往来を通り竹藪の奥へ向かった。

 竹の葉が擦れ合い、陽の光がほとんど届かない。

 あの日、剣を教わった静寂の場所が、今は血を孕んだように暗い。


 啓之助は刀を抜いた。怒りで手の震えが止まらない。

 「父の仇、取らせてもらう!」

 烈しく斬りかかる。だが、その剣筋は粗く、焦りに満ちていた。


 彦斎は一歩、半歩と身をずらし、すべてを受け流す。

 刀を抜くことさえせず、啓之助の攻撃を素手で受け流し、瞬く間に間合いを詰めた。

 啓之助の腹に掌底が入り、息が詰まる。次の瞬間、竹の根に足を取られ、地面に叩きつけられた。


 「この程度で仇討ちか。笑わせるな」

 彦斎の声は冷たい。

 啓之助は泥にまみれ、必死に立ち上がるが、再び足払いを食らって倒れる。

 息を吸うたびに胸が焼ける。


 「理想ばかり語る息子が、現実を知らぬまま刃を握る。……父と同じだな」

 その一言が、啓之助の心をえぐった。


 彦斎はゆっくりと刀を抜いた。

 日差しを反射して白刃が光り、冷たく啓之助の首筋に押し当てられる。

 「選べ」

 「……な、何を……」

 「ここで死ぬか、ある仕事をして生きるか」


 その声には感情がなかった。ただ命を量るような平坦な響きだった。

 啓之助は唇を噛み、必死に息を整えた。

 「仕……仕事?」


 「池田屋で、宮部鼎蔵という攘夷志士が新選組に殺された。——彼は俺の親友だ」

 「……宮部、鼎蔵……」

 「お前の“組”の中に、彼を斬った者がいる。そいつを探せ。誰が仇なのかを、内側から突き止めろ」


 啓之助の目が大きく見開かれた。

 新選組。己が誠を掲げて生きる場所。その中に、河上彦斎の仇がいる――?


 「お前が見つけ出せ。そいつが分かったら、今度こそ俺がお前と正々堂々戦ってやる」

 刃が、肌をかすめる。冷たさが血を凍らせた。


 「そ……そんな……」

 自分の仇討ちの為に仲間を売るような事など出来るわけがない。

 戸惑う啓之助に彦斎はもう一押しした。


 「宮部さんの仇を探り当てたら、もう一つ褒美をやろう」


 彦斎は死んだ目でにたりと冷たく笑った。


 「お前の父、佐久間象山が死ぬ間際に何を言ったか教えてやる」


 彦斎の目に宿る光は、もはや道理を捨てた修羅そのものだった。


 啓之助は父の最後の言葉に心が動いた。

 同じ京にいながら死に目にあえなかった後悔。その後悔が最後の言葉で浄化しそうな気がした。


 彼は泥に伏したまま、かろうじて頷いた。

 憎悪はまだ胸にあったが、いま彼を支配しているのは恐怖ではなかった。

 ——屈辱。


 彦斎は刃を引き、立ち上がる。

 「立て。死にたいなら今ここでだ。生きたいなら、仇を探せ」


 啓之助はふらつきながら立ち上がる。

 背を向け、歩き去る彦斎の背中を見つめながら、唇を震わせた。


 (父上……あなたの仇を討つために、私は……敵のために働くというのか)


 竹の葉がざわめく。啓之助の頬を伝うのは涙か、汗か、自分でも分からなかった。


 「真実が分かったら、満月の夜にここに来い」


 彦斎の姿が竹藪の向こうに消える。

 その瞬間、啓之助はようやく息を吐き、空を仰いだ。

 青い光が竹の隙間から差し込み、傷ついた少年の顔を照らしていた。


 ——父の仇を討つための道は、最も残酷な形で始まったのだった。

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