第三十二話 仇を追って
京の夏はうだるような暑さだ。
西本願寺の屯所は落ち着いていて、稽古以外の時間には蝉の声しか聞こえない。
仲間たちは新しい環境に慣れ始め、笑い声も戻りつつあったが、啓之助の胸だけは冷えきっていた。
——父の仇、河上彦斎。
ずっと探していたが、まだ居場所が掴めない。
書簡、記録、浪士宿に定期的に出入りしたが、どれも手がかりはなかった。
だが、近頃ある噂が耳に入った。
「人斬り彦斎」という異名を持つ浪士が京に潜んでいる、と。
ーーまだ京にいる。
啓之助は、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。
(河上彦斎はたしか肥後の浪士のはずだ)
京の町で肥後訛りを耳にできる場所は限られている。
その土地の者が気を許すのは、同郷か、酒の席だけ。
啓之助は机の上に地図を広げ、しばし考え込んだ。
(武士や浪士の出入りがあり、話が交わされる場所……)
筆先で地図をなぞる。
そして一つの名で止まった。
——島原。
翌日、啓之助は一人、黒い羽織を羽織り、腰の刀に布を巻いて目立たぬようにした。
島原の大門をくぐると、甘い白粉の匂いと香の煙が入り混じって漂ってくる。
客引きの声があちこちからかかるが、啓之助は静かに首を振った。
目的は遊びではない。情報だ。
彼は一軒の大きな揚屋を選び、暖簾をくぐる。
帳場にいた女将が目ざとく啓之助を見て笑った。
「まぁまぁ、お若いお侍さんどすなぁ。お馴染みのお店はどちらさんやろ?」
「いいえ、初めてです。ただ、少し……人を探しておりまして」
啓之助は懐から小さな包みを取り出し、そっと机に置いた。
白銀が覗く。女将の目が一瞬きらりと光る。
「人探し、言わはるん? 島原にはいろんなお人が出入りしますえ。……どんなお方をお探しやの?」
「肥後の言葉を話す男です。腕の立つ方で」
女将は扇子を開き、しばらく考えるふりをしてから口を開いた。
「肥後……そういや、“白鷺屋”の子が、そんなお客はった言うてたわ。ちょっと待っとくれやす」
ほどなくして、女将が若い女を伴って戻ってきた。
年は十七、八。白粉の奥に、まだあどけなさが残る。
「菊乃」と呼ばれた少女は、啓之助の姿を見て目を丸くした。
「このお方が探してはるのは、あんたの言うてた“肥後言葉のお客さん”やて」
「……あぁ、もしかしたら、あの方かもしれへんわ」
菊乃は扇で口元を隠しながら、思い出すように言葉を選んだ。
「長州の言葉しゃべるお仲間さんと、ときどきいらっしゃいますの。髪をうしろで結うて、静かな方どした。あんまりお酒は召さへんけど、お仲間さんから『ヒラクチ』と言われとりましたなぁ」
啓之助の心臓が跳ねた。
(蝮蛇……河上彦斎……!)
彼は息を整え、なるべく平静を装う。
「その方は、今も京に?」
「えぇ。二、三日前にも来やはりましたわ。お供えを持ってはったさかい、寺の方へ行かはるんやないかと思いまして」
「寺……?」
啓之助は懐から小さな包を取り出し、菊乃に握らせた。
「ありがとうございます。これは気持ちです。受け取ってください」
菊乃は戸惑いながらも頷く。
「わかりましたけど……危ないことにはならへんのやろ?」
「心配はいりません。ただの旧知です」
女将は意味深に笑った。
「旧知、言わはるか。……お若いのに、肝ぃ据わってはりますなぁ。あんた、ただ者とちゃいまへんな」
啓之助は女将にも包みを握らせて、黙って一礼し、揚屋を後にした。
外の風は冷たく、夜空に薄い雲が流れていた。
島原の通りを出ると、道端に灯籠の明かりがちらほらと揺れている。
歩きながら、啓之助は頭の中で情報を整理した。
——肥後言葉。
——蝮蛇の彦斎。
——お供え。寺へ。
(誰かの墓参り……それとも、何かの祈りか)
京には数多の寺がある。
だが、浪士が堂々と出入りできる場所は限られていた。
その中でも、島原からほど近い寺町通り——攘夷派志士の客が多い浄土宗の寺が思い浮かぶ。
啓之助は翌朝、装いを変えてその寺を訪ねた。
僧に小さな布施を渡し、控えめに尋ねる。
「最近、肥後の言葉を話す浪士が参られていませんでしたか?」
僧は眉を寄せ、少し考えてから頷いた。
「ありましたえ。こないだ、若い浪士はんが仏さんの前で、肥後言葉でなんや言いながら、えらい長いこと手ぇ合わせておいやしたわ。
黒い羽織着てはって、背ぇは低うて。お顔立ちは……こんなこと申したら叱られましょうけど、女はんみたいに優しゅうおしたわ。
礼儀はきちんとしてはったけど、目ぇがまるきり笑うてへんで、そらもう怖おしたなぁ。」
その言葉に、啓之助は息を呑む。
「……ありがとうございます」
寺を出ると、朝日が東の空を染めていた。
光に照らされた境内の石畳が白く輝く。
啓之助は拳を握った。
(河上彦斎——奴の尻尾を掴んでいる気がする)
その名を胸の奥で噛みしめながら、
啓之助はゆっくりと西本願寺の方へ歩き出した。
父の仇を追うために、
彼は自分の知恵と覚悟をもって動いたのだった。




