第三十一話 仇を探して
京の初夏は、盆地特有の湿度をともなっていた。
陽が沈む前の街路を、一陣の風が吹き抜け、青葉を揺らしていた。
その往来の片隅に、一人の浪士が立ち止まっていた。
黒い羽織の袖を風に揺らし、女性のような柔らかな顔立ちに似合わぬ鋭い眼差しで遠くを見つめる。
河上彦斎——。
——池田屋の夜から、もうすぐ一年経とうとしていた。
宮部鼎蔵が倒れた瞬間を、彦斎はいまも悪夢に見る。
あの夜、彼が守ろうとした「理想」は無残に血に沈み、
そして「正義」と名乗る者たちの刃が、彼を貫いた。
新選組。
彦斎にとっては、親友を踏みにじった仇の名だった。
だが、その仇を討つためには、あまりにも情報が少ない。
誰が宮部を斬ったのか。どんな面相の者だったのか。
桂小五郎の情報網をもってしても、判明していない。
彦斎は袖の下に隠した刀の柄を握りしめ、唇を噛んだ。
「……必ず、仇は討つ」
そう呟いた刹那——
「巡察の列、通るぞ!」
通りの向こうから声が上がった。
道行く人々が左右に避ける。
白地に浅葱のだんだら羽織。腰の刀。規律正しい足並み。
——新選組の巡察である。
彦斎は反射的に、路地の陰に身を隠した。
静かに息を潜め、列の端々を観察する。
隊士たちは若い者から壮年まで、人数も多い。
——誰が、宮部さんを斬った?
——この中にいるのか?
視線を追っていたそのとき、
一人の少年隊士が列の中に混じっているのを見て、彦斎の目がわずかに見開かれた。
「あの顔は……」
数ヶ月前、竹藪の中で何度か言葉を交わした少年。
剣に未熟ながらも理想を語り、人を斬ることに迷いを見せていた。
その彼が、だんだら羽織をまとい、仲間とともに歩いている。
颯爽と歩く姿は凛としており、かつての迷いの影は見えない。
彦斎は、心の奥がざわめいた。
(あの少年……新選組に所属してるのか)
信じられぬ思いだった。
自分と同じく信念を語り、力の腐敗を憎んでいたはずの青年が、
いまは“その仇の側”にいる。
啓之助は他の隊士と共に通りを過ぎ去った。
彦斎は逡巡の末、無意識にその背を追った。
(待て……何をしている)
己の中の声が制止する。
だが足は止まらなかった。
路地から路地へ。
啓之助たちは西本願寺の大門へと歩いていく。
その門の内側には、浅葱色の波——数えきれぬほどのだんだら羽織がうごめいていた。
馬の嘶き、隊士の号令、鉄の匂い。
彦斎は影のように立ち尽くした。
「……これが、新選組の巣窟か」
その規模に、彼は息を呑む。
池田屋の頃は、まだ数十人の浪士集団に過ぎなかった。
だがいまは百を超える兵。規律も整い、もはや一個の軍隊に近い。
(こんな中から、一人を探し出せというのか)
(宮部さんを斬った男を……)
拳を握りしめる。
悔しさと、わずかな恐怖が胸を刺す。
——敵は、あまりにも巨大になりすぎた。
そのとき、門の内で啓之助が仲間に何か指示をしていた。
その声が微かに届く。
柔らかく、理知的で、どこか優しい声音。
かつて竹藪で語り合ったあの時が脳裏をよぎる。
——だが今、彼は彦斎の敵側に立っている。
彦斎は無意識に刀の柄へ手を伸ばした。
だがすぐに、その手を止めた。
「……いや、違う」
低く、震える声。
「今、あいつを斬っても……何も変わらない」
風が吹いた。葉桜が、西本願寺の瓦の上に影を落とす。
(俺は何をしている……復讐のために、誰を斬ろうとしている?)
(本当に、あの少年が敵なのか?)
夕暮れの光が、彼の頬を照らした。
やがて彦斎は静かに踵を返した。
「……教えてくれ、宮部さん。
俺が本当に斬るべき敵を」
その声は誰にも届かず、広い京の空に溶けていった。
西本願寺の鐘が、遠くでゆるやかに鳴り響いた。
それはまるで、復讐に囚われた浪士の心を戒めるような、深い音だった。




