第三十話 江戸からの風
春の光が西本願寺の瓦屋根を淡く照らしていた。
境内に続く道の向こうから、土煙が立ちのぼる。
浪士の一団が、ゆっくりと近づいてくる。
「——只今戻りました!」
明るい声が響いた。藤堂平助だ。
江戸での隊士募集を終え、五十二名もの新入りを引き連れての帰京である。
「藤堂さん!」
啓之助は思わず駆け出した。
藤堂は馬から軽やかに飛び降りると、笑いながら手を振った。
「おお、三浦君! 久しぶりだねぇ、元気してたか!」
「はい、藤堂さんこそ……お疲れさまです」
藤堂はいつものように明るい笑みを見せ、肩をぽんと叩いてくる。
「こっちはもう大変さ。江戸じゃ新選組の名を聞いただけで逃げる浪士もいれば、目を輝かせて入隊したいって奴もいたよ。賑やかで退屈はしなかったね」
「五十二人も……本当にすごいです」
「まぁな! この大所帯を連れて京まで来るのは骨が折れたよ」
いつもの軽口。
——けれど、その目の奥にほんの僅か、探るような陰が宿っていた。
藤堂はあたりを見回し、眉をひそめる。
「……あれ? 山南さんの姿が見えないな。巡察中か?」
その一言に、啓之助の胸が締めつけられた。
春の空が霞んで見える。
「……山南さんは、もう……」
声が震えた。藤堂は笑みを消し、静かに顔を向けた。
「何があった?」
啓之助は目を伏せ、ぽつりぽつりと語った。
山南の脱走、沖田による連れ戻し、そして——切腹。
言葉が終わるころ、境内を吹き抜けた風が二人の袴を揺らした。
藤堂は何も言わなかった。ただ、拳を膝の上に置いたまま動かない。
その顔は感情が抜け落ち、笑ってもいなければ、怒ってもいなかった。
「……そう、か」
低く落とされた声が、風にかき消えそうに小さい。
「山南さん……嘘だろ。俺、またあの人に会って何気ないお喋りするつもりだったのに」
肩を落としたまま、藤堂は俯いた。
長い沈黙のあと、無理に笑みを作る。
「ははっ、なんだよ……ちくしょう……いなくなるのが早すぎるよ」
それは明るさを装った笑いだった。
啓之助は、その笑みが壊れそうなほど痛々しいことに気づいた。
「藤堂さん……」
「大丈夫、大丈夫。今は泣くべき時ではないよ。……ほら、新入りたちが見てるだろ」
藤堂はそう言って、無理に背筋を伸ばした。
だが啓之助には、その笑顔の奥にある“ぽっかりと空いた穴”が見えていた。
その夜。
屯所の広間では藤堂の帰還祝いが開かれた。
新入りたちの緊張と、古参の安堵が入り混じる中、近藤と土方も盃を掲げる。
「よく戻ったな、藤堂」
近藤が声を張る。
「江戸での働き、誠に見事だ。これで我が隊もますます心強い!」
「いえいえ、募集に応じてくれた皆さんのおかげです」
藤堂はいつもの調子で頭を下げ、笑ってみせた。
「山南さんもきっと喜んでくれると思ってたんですけどね」
その棘のある言葉に、一瞬、場の空気が凍る。
しかし藤堂はすぐに「ま、飲みましょうよ!」と明るく切り替えた。
その笑顔に、誰もが何も言えず、ただ盃を合わせるしかなかった。
酒が回るにつれ、場は賑わいを取り戻す。
沖田は新入りたちに池田屋事件の話を聞かせ、永倉と原田は酔って騒ぎ、伊東は静かに盃を傾けていた。
啓之助は隅の席で藤堂を見ていた。
藤堂は笑いながらも、ときおり遠くを見るように沈黙する。
笑顔の裏に浮かぶ哀しみが、灯明の揺らめきに滲んでいた。
「なぁ、三浦君」
藤堂が不意に声をかけてきた。
「僕ら、大切な人を失っちゃったけど……それでも前に進まなきゃいけないんだろうな」
「……はい」
「理想を語ってくれた人がいなくなったなら、次に語る人が必要になる。……君なら、きっとできるよ」
藤堂は盃を差し出した。
啓之助は静かに受け取り、杯を合わせた。
——からん、と澄んだ音が響いた。
その音は、春の夜風に乗って、西本願寺の屋根の彼方へと消えていった。
まるで、理想を信じた人々の魂を送る鐘のように。




