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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第二十八話 言葉の剣

 午下がりの門前に、人だかりができていた。縄をかけられた浪士が一人、土間に膝をついている。頬には殴打の痕、肩口の衣は泥で黒く染まっていた。


 「新選組の名を騙って献金を取立てた、と町方より訴えあり」


 副長・土方歳三の声は低く乾いていた。傍らの木箱には、銀子と紙包みが雑然と投げ込まれている。差し出した商家の名が墨で殴り書きされており、金額は実にまちまち。中には奇妙に半端な数も混じっていた。


 縛られた浪士が声を絞る。「違う、俺はそんな真似は——」


 「口で言うなら誰でも言える」


 土方は一瞥して踵を返した。その背中は迷いがない。周囲の隊士の顔が硬くなるのを、三浦啓之助は遠巻きに見ていた。胸の奥に、ひっかかるものがある。違和感の正体を探るように、彼は目を細めた。


 (……献金の取り立て? わざわざ壬生狼と恐れられている新選組の名で? そんなことしたら新選組に目をつけられると決まっているのに……)


 木箱の上に、一通の「通達」が無造作に乗っている。『京都守護職御用・新撰組取立方』と墨書、三つ葉葵の印。啓之助は、そっとそれを借りるように手に取って紙質を指先で確かめた。楮紙だが、目は粗い。奉書の張りがない。印の朱は、妙に薄い橙で、押された面が毛羽立ってかすれている。


 文面を追い、啓之助はふと眉根を寄せた。


 (「新撰組」……?)


 「撰」の字に、違和感が刺さった。新選組の公式の書付で「選」の字が用いられることは、近頃の行軍録の草稿でも目にしたばかりだ。もちろん世間では「撰」の字も散見する。だが、ここにはもう一つ、決定的な綻びがある。


 日付の書き方だ。


 『元治二年三月四日』。その下に干支が『丙午』と添えられている。


 (おかしい……三月四日の干支は、辛亥のはずだ)


 父の書院で何度も叩き込まれた「日付と干支」の対応が、脳裏に自動のように浮かび上がる。陰暦の暦法は、理の最も基礎にある「数」の体系だ。元治二年三月四日が丙午になることはない。——暦を知らぬ者の筆だ。


 啓之助は背筋にひやりとした風を感じた。紙の隅には、木版の痕がある。『新撰組』の「撰」のつくりの下部、横画の端が欠け、僅かな凹みができている。おそらくは版木の欠けだ。同じ版から刷られた紙が、他所にも出回っているはずだ。


 (偽の通達。刷りもの。……どこかで、量産されている)

 捕縛されている浪士の顔を見る。

 焦りと恐怖で歪んでいる。

 量産された書類で組織的に押し借りを行っているならば、仲間の秘密は話すまいと口を引き結びそうなものだが。


 (冤罪……な気がする。直感だし確証は無いけど。このままだとあの人は殺される。どうしても見過ごせない)

 啓之助は通達を懐に収め、そっと場を離れた。




 まず向かったのは、訴えを出したという呉服屋だった。店は表向き静かだが、奥からはざわめきが漏れている。「御用金取立て」の男が訪れたのは昨夜の酉の刻、閉店間際。帳場に座った番頭は顔を強張らせて話した。


 「“京都守護職御用だ。新選組の名代だ。上様のためとあらば断れまい”と。……書付も見せられまして」


 「その書付、字におかしなところはありませんでしたか」


 「さぁ……葵の印があって、字面も立派で……」


 奥から女中が顔を出し、恐る恐る付け加えた。「あの人、左頬に古い刀傷がありました。鼻の脇が潰れて、声に鼻がかかるような……」


 (左頬の傷、鼻の潰れ……。捕縛された浪士には無かった)


 次に、魚屋。続けて、薬種屋。いずれも同じ夜更けに同様の「取立て」を受け、差し出した金は銀子ではなく、なぜか半端な銭混じり——「四百三十二文」だの「三貫と二百文」だの、妙に「割り切れない数」が目についた。


 「何故その端数に?」


 「“お上から定めがある”と言われまして……」


 啓之助は帳面を借り、指で数を追った。禁門の変以降、町々は焼け残りと復興で銭不足が続く。だからこそ偽の役人は、貴重な小銭を得るべく細かい端数までかき集めるのだ。だが、新選組や守護職にそんな「銭単位の細取り」はない。大口の徴発は銀か米、規模も金額も明確だ。端数で銭を集めるのは「現場の無頼の発想」であり、書付の体裁との齟齬が露わだ。


 さらに、どの店でも「取立ての男」が持っていた朱印の色が薄かったという。京で使われる良質の朱は奈良産の辰砂が主だが、色が淡いのは代用品、しかも油分が少ない安物。


 (印が安い。紙が粗い。干支が違う。表記が揺れている。……そして、端数の銭)


 点が、線になってゆく。


 啓之助は最後に、印のことを確かめに白壁の小さな印章屋へ足を運んだ。店主は細い目をさらに細めて印面を覗くと、鼻を鳴らした。


 「これは朱ではなく紅だねぇ。上質の朱肉ならこうはならん。しかもこの欠け、版木の傷がそのままだ。……最近、似たような印を押した紙が二度ほど持ち込まれたよ。切り抜いて貼りたしたような不自然な跡があった」


 「それを持ち込んだのは?」


 「背の低い男でな、左頬に……刀傷の一つもあったかの」


 啓之助は深く頭を下げ、走った。次に向かったのは木屋町の版木屋だ。印章屋で聞いた「貼り足し」の話が頭を離れなかった。もし印影も文面も版木で刷っているなら、版木の欠けは版元が一番よく知っている。


 「『撰』の字のここが欠けている版、心当たりはありませんか」


 版木屋は目の利く職人で、あっさり頷いた。「藤四郎のところの古い板だ。二月ほど前、余り板を古紙屋に卸したはずだが……その前に一人、板を借りたいと来た。左頬に傷のある男だった」


 (繋がった)


 最後に啓之助は、夜回りの関所帳を確かめた。壬生の外れに設けられた見張りの詰所には、昨夜橋を渡った者の名が控えられている。捕らえられた浪士の名は、申の刻から戌の刻にかけて、寺町のほうの寺で「写経講」に出ていたという。寺の名を聞き、足を運ぶ。住持は落ち着いた笑みで頷いた。


 「確かにおった。親に先立たれ、物の道理を学びたいと通ってくる若い浪士じゃ。筆の持ち方も不器用で、茶も上手く啜れん。だが、人を脅すような目ではなかった」


 写経の紙には、彼の拙い楷書が残っていた。筆圧の薄い、震えた字だ。通達の流麗な行書の筆致とは、明らかに別の手。ついでに寺の梵鐘番に時間を問えば、確かに昨夜の戌刻初め、寺の門内でその浪士に茶を出したと記録がある。時の鐘の控も示された。


 啓之助は、拾い集めた紙片を懐に抱いて屯所へ戻った。走りすぎて、息が熱い。


 (証は揃った。……言葉で、戦える)




 副長詰所の前で息を整えると、襖の向こうに一礼して入った。土方が火鉢の炭を箸で転がしていた。隣に斎藤一が背をもたせ、薄く笑っている。


 「なんだ、坊ちゃん。今度は何の講釈だ」


 からかい半分の斎藤の声に、啓之助は頭を下げた。「講釈ではありません。今日騙りで捕らえられた浪士の冤罪の証拠をお持ちしました」


 机上に通達の紙、印章屋の見立て書き、版木屋の口上を書き留めた紙、寺の鐘番の控え、写経の紙、そして店々の帳面の写しを、一枚ずつ整然と並べていく。啓之助の指は震えていなかった。言葉は簡潔で、声は静かだった。


 「まず、この通達は増産されている偽物です。紙は粗い楮紙、朱は紅、印は版木の欠けがあり、同一の欠けを持つ印面が他所でも確認されています」


 土方の眉がわずかに動く。


 「また、日付の干支が『丙午』になっている。元治二年三月四日の干支は辛亥で、暦法に疎い者の筆です」


 「ほぉ……干支まで気にするか、坊ちゃんは」

 斎藤が感心とも嘲笑ともつかぬ声を漏らした。


 啓之助は続けた。「金の取り方も不自然。銀ではなく、銭を端数まで絞るやり方は、役目の徴発ではない。小銭を集める無頼の手口です」


 紙を示しながら、彼は最後の一枚を差し出した。寺の鐘番の控えだ。そこには昨夜の戌刻初め、写経講の参加者に茶を出した記録がある。住持の署名もある。さらに写経の紙。筆致が通達のそれと違うことは、素人目にも明らかだった。


 「この浪士は戌刻、寺にいました。御用金取立てと称する者が店々を回ったのは申から酉にかけて。寺はここ、店々はここ——」


 啓之助は紙の上に京の略図を描き、距離と時刻を指で示した。「移動の時間が合いません。——彼は、無実です」


 静寂が落ちた。火鉢の炭が、ぱちりと弾ける音だけが響いた。


 土方はゆっくりと、紙の束から一枚を取り、次にまた一枚を手に取る。朱の色、紙の目、欠けた印影。斎藤が身を乗り出して、愉快そうに書類を覗き見た。


 「文字の物的証拠も、証言の状況証拠も、立証されてるなぁ」

 斎藤の目が細く笑う。


 土方は、ふいに息を吐いた。胸の奥の何かを押し出すような、低い、重い息だった。


 「釈放だ」


 短く言い、机に指を二度、軽く叩いた。「ということは他に俺らの騙りを組織的にしている奴らがいるってことだ。斎藤、版木屋と印章屋も当たり、板元をあげろ。——それから」


 土方は啓之助を見た。氷のような目の底に、微かな光が宿っていた。


 「勝手な真似をしやがって。だが——お前の言ってる事は筋は通ってる」


 喉の奥が熱くなった。啓之助は深く頭を下げた。

 「ありがとうございます」


 出ていこうとしたとき、斎藤が肩で笑った。

 「坊ちゃん、やるじゃねぇか」


 啓之助は振り返らず、「私はただ真実を突き止めただけです」とだけ答えた。声は穏やかだった。自分でも驚くほど、穏やかだった。




 日暮れの門前で、縄を解かれた浪士が震える声で啓之助に礼を言った。

 「ありがとうごぜぇやす。命、拾いました」


 啓之助は首を振った。

 「真実があなたを救ったんです」


 浪士は不思議そうに笑い、去っていった。夕風が誠の旗を鳴らした。遠くから、時の鐘が聞こえる。壬生の空は薄紫に染まり、冷たい月が昇り始めていた。


 背後で地面が擦れる音がし、伊東甲子太郎が後ろに立っていた。細い目が笑い、頷く。

 「見事だったね」


 啓之助は照れ臭そうに頭を掻いた。

 「ありがとうございます。どうしても見過ごせなくて……」


 伊東は静かに言った。

 「理は、弱い。だからこそ、証で守る。——今日、君はそれをやってのけた」


 啓之助は、夜の空気を吸い込んだ。胸の奥の痛みは、まだ消えない。だが、その痛みが自分をまっすぐ立たせていることが、今ははっきり分かる。


 (山南さん。僕は、理想を諦めません。信念で、血に抗います)


 月は、細い刃のように空を切っていた。

 その下で、若い剣士は初めて「言葉の剣」を抜いたのだった。

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