第二十七話 涙味の酒
山南の死から一週間が経った。
屯所は、何事もなかったかのように動いていた。
巡察も、稽古も、報告書の束も、いつも通りだ。
だが啓之助の心は、まるで抜け殻だった。
報告書を捌く手は機械のように動いても、目の焦点は定まらない。
食事の味も感じず、言葉を交わすことも減った。
(何のために、ここにいるんだろう)
机の上の灯明が揺れ、山南の笑顔が脳裏に浮かぶ。
そのたびに胸の奥が締めつけられた。
ある日の午後。
伊東甲子太郎が廊下の向こうから歩み寄ってきた。
いつものように柔らかく微笑み、声をかける。
「三浦君、顔色が優れないね。無理をしてないかい?」
啓之助は慌てて姿勢を正した。
「だ、大丈夫です。ご心配には及びません」
「そうか。だけど、悲しみを無理矢理封じ込めると、いつか心が折れてしまうよ」
伊東の穏やかな言葉に、啓之助は思わず目を伏せた。
「……ありがとうございます」
それ以上は何も言えなかった。
数日後の夕刻。
啓之助が倉庫となってる部屋で帳面を整理していると、背後から突然声がかかった。
「おい、三浦。ちょっと来い」
振り向くと、永倉新八と原田左之助が立っていた。
二人の表情はいつになく真剣だ。
「な、何かありましたか?」
「いいから来い」
そう言って両脇を抱えられ、半ば強引に土蔵へと連れていかれた。
扉を閉めると、そこはひんやりとした空気に満ちていた。
永倉が徳利を二本、どんと目の前に置く。
「いいか。いつまでも辛気くせぇ顔してんじゃねぇ!」
啓之助が目を丸くする間に、原田が盃を差し出した。
「俺たちだって、あの人とは試衛館から一緒だ。……お前だけが辛いと思うな」
永倉は鼻をすすり、盃を煽る。
「山南さんは……優しすぎたんだよ。脱走する前に俺たちが気づいてやればよかったのによ……」
原田も頷き、拳で目頭をこすった。
啓之助は何も言えず、盃を握ったまま俯いた。
その手が震えていた。
気づけば、涙がぽたりと落ちていた。
「……山南さんは……私に新選組での居場所をくれた人なんです……!」
声が震え、嗚咽が漏れる。
「あんな優しい人がもういないなんてっ……!」
啓之助は声を上げて泣いた。
永倉と原田も、思わず顔を覆う。
「……馬鹿野郎。泣いていいんだよ。今ぐらいは……な」
「そうだ。酒だ。飲んで飲んで飲みまくって……そして泣いて全部ぶち撒けちまえ」
三人は徳利を回しながら、泣き、飲み、また泣いた。
土蔵の中は涙と酒の匂いに満たされ、夜風が小さな明かりを揺らした。
どれくらい経っただろうか。
戸口が静かに開き、沖田総司が顔を覗かせた。
「あーあ、居ないと思ったら……こんな所に……」
苦笑しながら中に入る。
そこには、真っ赤な顔で大号泣している啓之助、
ぐずぐずに泣きながらも啓之助の背を叩いて慰める永倉、
それに同意するようにうんうん頷いている原田の姿。
沖田は三人の傍らに転がる大量の徳利を見つけ、呆れたように眉を下げた。
「こんなに飲んで……収拾がつかないよ。三人とも、そろそろ寝たら?」
「沖田ぁ……山南さんがよぉ……!」
永倉がしゃくりをあげる。
「はいはい、わかってる。みんな、あの人が大好きだったもんね」
「僕だってあの人を見逃すつもりだったんだけど。山南さんったら、自分から僕に声掛けてきてさ……。あの人、馬鹿だよ……。馬鹿真面目すぎるんだ」
沖田は涙目になりながら、掌で顔を覆い隠した。
夜も更け、風が土蔵の隙間を抜ける頃。
酔いに沈みながら、啓之助はぼんやりと天井を見上げていた。
(永倉さん、原田さん、沖田さんも……皆、苦しみながら、それでも前に進もうとしてる)
胸の奥がじんわりと熱くなる。
山南の笑顔が、また浮かんだ。
(私も、立ち止まっていられない)
目を閉じた啓之助の頬を、最後の涙が伝って落ちた。
それは悲しみではなく、決意の色を帯びていた。
翌朝、屯所の庭には冷たい朝日が射し込んでいた。
土蔵の前で、まだ寝ぼけ眼の永倉と原田、そして二日酔いで頭を押さえる啓之助。
沖田が笑いながら言った。
「おはよう。……今日も稽古、頑張ろうね」
啓之助は小さく頷いた。
昨日までと同じ朝。けれど、その胸の奥には確かな変化があった。
(私はもう、山南さんの教えにすがるだけの子供じゃない。これからは自分の道は自分で切り開く)
冬の陽光が、彼の背を静かに照らしていた。




