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比翼の仇  作者: 烏丸 燈


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第二十六話 無血の理想、流血の現実

 翌朝、壬生の空は鈍い雲に覆われていた。

 雪の名残が屋根に白く残り、軒先から落ちる水音が、小さく響く。


 ——昨日、山南敬助が前川邸で切腹した。


 その報せが屯所に伝わったのは、夜が明ける前だった。

 だが、朝になっても誰一人、その名を口にする者はいなかった。

 いつも通りに稽古が行われ、巡察が組まれ、食事の膳も並ぶ。

 まるで、最初から山南などいなかったかのように。


 啓之助は膳の味を感じなかった。

 湯気の向こうに、山南の優しげな微笑みが浮かんでは消える。

 (なぜ……みんな普通の顔ができるんだろう……)

 胸の奥で、何かがきしんだ。


 息苦しくなって、啓之助は箸を置き、ふらりと立ち上がった。

 誰も呼び止めない。

 彼はそのまま、雪解けの泥道を歩き出した。


 目的もなかった。

 ただ、屯所にいられなかった。

 (あの人がもういない場所に、どうして平然と笑っていられる……)


 気づけば足は、あの竹藪の前に来ていた。

 春の光を待つように、細い枝の間から冷たい風が吹き抜ける。

 啓之助は立ち止まった。

 (ここなら、あの浪士にまた会える気がする……)


 その想いに応えるように、竹の間から刀が風を切る音がした。

 すらり、すらりと、迷いのない素振り。

 そして振り返ったその小柄な人影に、啓之助の息が止まる。


 河上彦斎は、振り下ろした刀を軽く払って微笑んだ。

 「……あの時とは逆ですね」

 啓之助が小さく笑うと、彦斎は頷いた。

 「君が人目につかない良い稽古場を教えてくれたからな。活用させてもらっている」


 彦斎は近くの岩に腰を下ろし、刀を鞘に収め膝に置く。

 「ひどく顔色が悪い。何かあったな?」


 啓之助は、言葉を探した。

 喉の奥が焼けるように痛んだ。

 「尊敬していた方が……亡くなりました」

 「そうか」

 彦斎はそれ以上聞かず、ただ静かに竹の葉の揺れる音を聞いていた。

 やがて口を開く。

 「その人は、君に何を残した?」

 啓之助は俯いた。

 「“人は力ではなく理想で導くべきだ”と。……でも、その人は理想と力の間で苦しみ命を落としました」

 「理想のために死ぬ、か」

 彦斎の声が、低く響いた。

 「それは、弱さでもあり、強さでもある」


 啓之助が顔を上げると、彦斎は真っ直ぐに見つめていた。

 「理想を語る者は、常に血を避ける。だが、血の中にしか守れぬ理想もある。俺の親友もそうだった」

 啓之助の瞳が動く。

 「攘夷を夢見た男だ。笑い、語り、同じ志を誓った。だが、現実は違った。世の中は残酷な程に血を求める」

 その声音は、微かに震えていた。


 「俺は……その血を引き受けることにした」

 「……どういう意味ですか」

 「理想を信じて死んだ者の代わりに、俺が斬る。

 世が血でしか動かぬなら、俺が血を流してでも、その理想を形にする」


 冷たい風が吹き、竹がざわめいた。

 啓之助は胸の奥に熱いものがこみ上げるのを感じた。

 「あなたは、それでいいんですか。血なんて……流さない方が良いに決まってる」

 彦斎は目を伏せた。

 「そうかもな。だが、誰かが汚れ役を引き受けなければならない。地に足ついていない理想なんてものは瞬く間に堕ちる」


 啓之助の瞳が揺れた。

 鬼として汚れ役を受け入れる土方の冷たい視線がよぎる。

 (理想を貫く者が死に、力を選ぶ者が残る——これが、この世の道理なのか?)


 「人を傷つけたくないと思うのは、間違いなんでしょうか」

 彦斎はしばらく黙り、竹の影の中に視線を落とした。

 「間違いじゃない。だが、綺麗事だけではこの動乱の世は生きられない」

 「……」

 「血を流し続けてでも信念を持ち続ける奴だけが、人を導ける。

 君の“尊敬した人”も、それを分かっていたはずだ」


 その言葉が、啓之助の胸を貫いた。

 涙が滲み、視界が揺れた。

 「……どうしたらいいのか、もう分かりません」

 彦斎は立ち上がり、啓之助の肩にそっと手を置いた。

 「分からなくていい。迷うというのは、可能性だ」

 「……可能性」

 「君はまだ若い。時間はたんとある。自分の確固たる信念が見つかるまで色んな可能性を試しつつ迷うがいい」


 竹の葉がひらひらと落ちた。

 啓之助は自分の手を握りしめ、深く息を吸い込んだ。

 「……あなたにまた会えてよかった」

 「俺もだ」

 彦斎はわずかに笑った。

 「次に会う時は、もう少し“強い顔”を見せてくれ」


 啓之助は頷き、竹藪の出口で振り返った。

 太陽が雲間からのぞき、二人の影を地面に落としていた。

 ——理想を信じた者と、血を流し力に生きる者。

 その二つの影が、平行線を描いていた。

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