第二十五話 雪上に散る山桜
その日の壬生は、雪が静かに降り積もっていた。
前夜から続く白い風が、町全体を包み込み、音を奪っている。
朝の屯所は、異様な沈黙に満ちていた。
いつものざわめきも、稽古の掛け声もない。
誰もが息を潜めているようだった。
啓之助は胸の奥がざわつくのを抑えきれなかった。
(まさか……まさか、山南さんが……)
昨夜から山南は屯所に戻らず、沖田総司が追って出たきり、消息は途絶えていた。
夜明け前、門の方で蹄の音がして、沖田が雪を纏って帰ってきた。
だがその顔には、いつもの明るさがなかった。
「……連れてきました」
その言葉に、空気が凍りついた。
土方歳三は無言で頷き、ただ一言だけ命じた。
「前川邸の一室に試衛館出身の者、そして伊東さんを呼べ。……三浦は来るな」
「な、なぜですか!」
啓之助は思わず声を上げた。
「山南さんは、僕に——“信念を信じて生きろ”と! その言葉を、僕はまだ返せていません!」
土方は冷たい目で啓之助を見た。
だが、その奥に一瞬だけ、深い哀しみが宿った。
「……お前は見なくていい」
低く、それだけ言い残して、背を向けた。
啓之助は動けなかった。
肩を震わせ、拳を握りしめたまま、廊下の雪の冷たさを感じていた。
(どうして……どうして、山南さんの事を止められなかったんだ……)
前川邸の一室。
白布が敷かれ、香の煙が静かに立ち上っている。
試衛館の面々——近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之助、斎藤一。山南と親しかった藤堂平助は江戸滞在で不在だった。
そして新参の伊東甲子太郎が、その場に座していた。
山南敬助は、白衣を纏い、背筋を伸ばして座していた。
その顔には、不思議な穏やかさがあった。
「お手数をおかけしました。皆さん……」
その声は、雪解けのように静かだった。
沖田は震える唇を噛み、言葉を失っている。
「……山南さん、どうして……」
「ありがとう、沖田君。君が見つけてくれて、嬉しかった」
微笑を浮かべながら、山南は短刀の刃を見つめた。
「私の理想は、この組で成すことはできない。けれど、“誠”を汚す前に、この身でけじめをつけようと思う」
伊東は目の前の悲劇に黙って頭を垂れた。
彼の瞳は震えながらも、真摯にその決意を見届けていた。
土方は一歩前に出る。
「……本当に、これでいいんだな」
「ええ」
「恨み言は——」
「ないさ。君の信念も、私には分かっている」
短い言葉が交わされる。
それは、互いに理解し合いながらも、二度と交わらぬ者同士の会話だった。
香の煙が揺れる。
山南は静かに深呼吸をし、短刀を腹に当てた。
「——皆と夢を見れて、楽しかった」
その言葉を最後に、刃が走る。
白布に赤が滲む。
沖田の介錯が、風のように速く、美しかった。
すべてが終わったあと、誰も動けなかった。
雪の外光が障子越しに差し込み、室内を淡く照らす。
土方はしばし立ち尽くし、静かに頭を下げた。
「……あの人は、俺の理想だった」
その声は、誰にも聞こえぬほど低かった。
屯所の一室。
啓之助は、雪に濡れた足袋のまま、ぼんやりと座っていた。
何も知らされぬまま時間だけが過ぎた。
静かすぎる空間なのになぜか急に胸の奥がざわめく。
(まさか……)
そこへ、沖田が帰ってきた。
白い息を吐き、目を真っ赤にしている。
啓之助は駆け寄り、息を荒げた。
「山南さんは!? どうなったんですか!」
沖田は何も言えず、ただ小さく首を振った。
その仕草だけで、すべてを悟った。
啓之助の喉が詰まり、息ができなくなる。
視界が滲み、胸が痛みで締めつけられる。
「……嘘だ……そんな、嘘だ……」
手が震え、呼吸が乱れた。
喉が焼けつくようで、何度も息を吸おうとしても空気が入らない。
「啓之助君、落ち着いて!」
沖田が肩を抱きしめる。
その声が遠くで揺れているように聞こえた。
——嗚咽が、堰を切ったように溢れた。
「私は……なにもできなかった……山南さんは、あんなに優しかったのに……!」
雪が、障子の向こうで静かに降り続いていた。
冷たく、美しく、そして残酷に。
その夜、啓之助は自室で机に突っ伏し、涙で滲む紙に震える筆で書いた。
心に浮かぶ激情を文にしたためないと、胸がはち切れそうだった。
『父上。理想を信じる者は、なぜいつも先に散るのでしょう。
信念を守るには、非情な鬼にならねばならぬのですか。
僕はまだ、答えを見つけられません——。』
墨が涙で滲み、文字は雪のように崩れた。
夜の壬生は静かだった。
ただ一つ、啓之助の部屋の明かりが凍てつく空の下に燃え続けていた。




