第二十三話 理の光と影
冬の気配が忍び寄る頃、壬生の空は澄みわたっていた。
日ごとに冷え込みが増し、屯所の庭木はすでに赤茶の葉を落としている。
その庭を囲む縁側に、伊東甲子太郎と山南敬助の姿があった。
伊東は白い手で湯呑を持ち上げ、柔らかく微笑む。
「いやぁ、やはり山南さんと話していると、心が落ち着きますな。あなたの言葉には道理がある」
山南は少し照れくさそうに笑った。
「伊東先生にそう言われては恐れ多い。私など、ただの実務担当にすぎませんよ」
「そんなことはない」
伊東は湯を啜り、微かに頷いた。
「剣も理も、結局は“人の道”をどう導くかに尽きる。あなたのように人の心を見ようとする者が、この組には欠かせないと思うのです」
その言葉には打算も飾りもなく、真摯な温かさがあった。
啓之助は庭の掃き掃除をしながら、二人のやりとりを聞いていた。
伊東の声はどこまでも柔らかく、しかし不思議な威厳がある。
言葉の一つ一つが理路整然としており、それでいて押しつけがましくない。
(……この人が“理で人を導く”というのは、こういうことなのか)
思わずそう感じた。
山南もまた、久しぶりに心を許せる相手を得たように見えた。
微笑みながら、互いに北辰一刀流の剣術の型や時勢について語り合う二人の姿は、穏やかでどこか理想的ですらあった。
だが、啓之助の目には——その穏やかさの奥に、小さな陰が見えた。
夜。
書院で伊東と山南が地図を広げ、長州征伐を想定した行軍計画の詳細を練っていた。
灯明の下、筆が滑る音と紙の擦れる音が静かに響く。
「……この隊を、幕府のためだけの刃にしてはいけないと思うのです」
伊東がふと呟いた。
「幕府は権力に固執して腐敗している。なればこそ、天皇に仕えて民に手本を示す。それが真の武士の在り方ではないでしょうか」
山南は筆を止めた。
「民を、ですか。……しかし、我々は浪士の寄せ集め。民に信を得るほどの徳を、持てているのでしょうか」
「徳は後から育つものです。信念が先にあれば、いずれ人はついてくる」
伊東は穏やかに笑った。
「近藤局長は“力”で人を導く方。だが、あなたのような人は“理”で導ける。私は、そういう指導者が必要だと思うのです」
その言葉に、山南は一瞬、表情を曇らせた。
(理で導ける人間……私が……?)
伊東の眼差しは純粋で、悪意はまるでなかった。
だからこそ、山南の胸には奇妙な焦燥が湧き上がった。
かつて自分が語っていた志——誠実に人を導くという信念。
それを、今は山南ではなく伊東が体現している。
(私は……もう、あの頃の自分じゃないのか)
灯火に照らされた二人の横顔。
伊東の顔には理知の光があり、山南の顔には影のような疲労が滲んでいた。
翌朝、山南は庭で剣を振っていた。
冷たい風が吹き、竹刀が空を裂く。
その背に、啓之助が声をかける。
「山南さん、伊東先生と最近よくお話しされてますよね」
山南は手を止め、微笑を浮かべた。
「ええ。……良い人だ。理想を持ち、それを人に伝える力もある。まるで、かつての私のようだよ」
「かつて、の……?」
「いや、何でもない」
山南は竹刀を立てかけ、縁側に腰を下ろした。
冬の朝日がその横顔を照らす。
「伊東先生のような人が来てくれたのは、新選組にとって良いことだ。組に先生の言う理が宿るかもしれない」
「そうですね。私も、伊東先生のお話を聞いていると不思議と前を向ける気がします」
啓之助の言葉に、山南は小さく頷いた。
だが、その笑みの奥には、ほんの僅かな影が見えた。
(理が宿る……か。だが、それを語るのが私ではないという現実が、少しだけ……痛いな)
啓之助はその微かな心の揺れに気づきながらも、何も言えなかった。
冬の風が、庭の竹を鳴らした。
その音が、どこか遠い別れの合図のように聞こえた。
その日の夕刻、伊東は屯所の廊下で啓之助を見つけ、微笑みかけた。
「三浦君、君は山南君と良い関係を築いておられると聞いたよ」
「はい。山南さんは、僕にとって学ぶことの多い方です」
「そうだね。あの方はこの組には珍しい温和で理知的な人だ。だからこそ、今の組で苦しんでいるようにも見える。……私は、彼のような人に再び光を取り戻してもらいたいと思っているよ」
伊東の言葉は、誠実そのものだった。
だが啓之助の胸には、かすかなざわめきが残る。
(伊東先生の言葉は完璧だ。だけど……なぜこうも眩しすぎるのだろう)
その夜、山南は自室で一人考え込んでいた。
(伊東さんはまっすぐな人だ。だが、彼の光はあまりに強く、私の影を深くしてゆく)
山南は小さく息を吐いた。
その息は白く、冬の夜に溶けて消えていった。




