第二十二話 名を刻まれし者
新たに編纂された「行軍録」は、分厚い和紙の束にして一冊の帳面だった。
長州征伐に備え、新選組の行軍体制と役割を明文化した正式記録である。
朝の冷気が張り詰める屯所の広間に、隊士たちが整列する。
近藤勇は威厳ある口調で口上を述べた。
「この行軍録は長州征伐を想定して作られたものだが、それだけではない!新選組が武家として幕府に正式に列する証だ。名を刻まれた者は、もはや浪士ではない。——武士として責を負う覚悟を持て!」
その声に一同が「はっ!」と応じた。
土方歳三が続いて控え、厳然とした視線を列に走らせる。
その後ろで伊東甲子太郎が筆を携え、事務方として名簿の確認を進めていた。
啓之助は最後列で息を殺すようにして立っていた。
(武士として……責を負う……)
その言葉の重さが、なぜか胸に冷たく沈んでいく。
やがて名簿が読み上げられる。
上座に近い位置から順に、局長、副長、参謀、各組長——そして、近藤勇の左右に名を連ねる者たち。
「近藤勇、右筆 近藤周助、左筆 三浦啓之助」
一瞬、場の空気がざわめいた。
啓之助は我知らず顔を上げた。
(……今、私の名を……?周助さんは近藤さんの養子だから分かる。だが、なぜ私も近藤さんの側近扱いになってるんだ……?)
列の中から驚きの視線が注がれる。
啓之助は動揺を隠しきれず、ただ背筋を伸ばした。
隣の沖田が無邪気に微笑みながらそっと囁く。
「すごいね。近藤さんのすぐ隣か」
「……すごい、というより、なぜ自分が……」
読み上げは淡々と続いていたが、啓之助の耳にはもう何も入ってこなかった。
その日の夕刻。
屯所の書院では、近藤と土方、伊東の三人が行軍録の確認に集まっていた。
啓之助は呼び出され、膝を正して控える。
「三浦君」
近藤は豪快に笑った。
「君の名を左筆に入れたのは俺の意志だ。でも解せない顔してるな……?」
「い、いえ……光栄に存じます」
緊張で声が震える。
「君は学がある。論が得意で、礼儀もある。幕府や会津の使者と話を通すには、こういう人物が必要なんだ」
「……若輩である私などで務まるでしょうか」
「務まるさ。君は象山先生の息子だ。勝先生の甥でもある。幕府にしてみりゃ、その血筋だけでも安心感がある」
その言葉を聞いた瞬間、啓之助の胸に重苦しいものが広がった。
(……私が選ばれたのは、“名前”のため?)
言葉にできぬ思いが喉に詰まる。
だが、近藤の目は真っ直ぐで、悪意など微塵もなかった。
啓之助の曇りを察した伊東が小さく微笑む。
「名前だけじゃないよ。論もまた剣と同じ。人を斬るためのものではなく、道を示すためにある。君なら、それができると近藤さんは信じてくれたんだ」
その言葉は柔らかく、どこか励ますようだった。
啓之助は頭を下げた。
「……ありがとうございます」
しかし、その胸の奥には、奇妙な不安が残った。
(私は誰のために論じるのだろう。新選組のためか、それとも——自分のためか)
逡巡し俯く啓之助をその場でただ一人、土方だけが冷たい目で睨めつけていた。
夜。
屯所の廊下を歩く啓之助は、ふと障子の隙間から灯りを見た。
中では伊東が文書を広げ、数名の新隊士たちと語り合っている。
「人は恐れで動かされるよりも、理で導かれるべきだ。
武士の名を得ても、それに縛られてはならぬ。
——新選組は、京を照らす灯火となるべきだ」
伊東の声は穏やかだが、確かな熱を帯びていた。
新隊士たちは真剣な表情で頷く。
その光景は、まるで新しい時代の息吹のように見えた。
(理で導く……伊東先生の言葉だ。
けれど、土方さんの“鬼の規律”もまた、現実を動かしている)
啓之助は拳を握りしめた。
その手の中に、自分の名が刻まれた行軍録の重みを思い出す。
(私は今、その両方の間に立たされている)
月が昇り、冷たい光が廊下に差し込む。
その光は、まるで白刃のように鋭く啓之助の足元を照らしていた。
——誠の道は、剣よりも鋭い。
啓之助はその事実を、静かに思い知り始めていた。




