第二十話 鬼の仮面
秋が深まり、屯所の庭に冷たい風が吹き抜けた。
稽古場には竹刀のぶつかる音が響く。だが、その音の奥にはどこか張りつめた気配が漂っていた。
近藤勇が江戸へ発って数日。笑いの絶えなかった新選組の空気は、土方歳三の一声で一変していた。
「型を乱すな。列を揃えろ。怠けた奴は即刻追い出す」
淡々とした口調の裏に、容赦のない冷気があった。
啓之助は竹刀を握りながらも、息を詰めて打ち込むしかなかった。
(これが……土方さんの稽古なのか)
稽古が終わると、隊士たちは誰一人笑わずに引き上げていった。
そんな中、沖田総司だけが柔らかな声で啓之助に声をかけた。
「三浦君。手のひら、豆が潰れてるよ」
差し出された長い指が、啓之助の掌を包む。
「力が入りすぎなんだ。土方さんに叱られると思うと、つい肩が上がっちゃうんだろ?」
啓之助は気恥ずかしさに頷いた。
「……あの人を見るだけで、体が強張ってしまうんです」
沖田は小さく笑った。
「うん、怖いよね。けど、あの人は“怖がらせよう”なんて思ってないと思う」
「え?」
「無理してるんだよ、土方さん。きっと……自分でも止められないんだ」
啓之助はその言葉の意味を測りかねた。
だが沖田の眼差しは澄んでいて、どこか悲しげだった。
「僕ね、試衛館のみんなが大好きなんだ。近藤さんも、土方さんも、山南さんも、他の皆も。でも、最近はみんな……別の方向を向いてる気がする」
「……別の方向を?」
「うん。まるで一本の道が、枝のように分かれ始めたみたいに。誰も悪くないのに、もう一緒には戻れない、そんな感じがするんだ」
沖田は微笑んだ。
「でも僕は信じてるよ。もちろん、土方さんも。あの人はきっと“新選組を守るために”鬼になってるんだ」
その言葉はまるで、子供が夢を信じるような純粋さを帯びていた。
啓之助は返す言葉を見つけられなかった。
夜。巡察帰りの斎藤一と啓之助が、並んで道を歩いていた。
街の灯が遠くに滲み、虫の音だけが冷たい風に溶けている。
「斎藤さん」
啓之助が口を開いた。
「土方さんは……なぜ、あそこまで強く人を縛るんですか」
斎藤はよく土方と話している所を見かける。土方に近い斎藤なら何か知っているかもしれないと思った。
斎藤は腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、組んだ腕を解き、ぽつりと答える。
「理由なんざ一つだ。恐怖で縛らなきゃ、この組は崩れる」
「……崩れる?」
「新選組は根無し草の寄せ集めだ。主義も志もまちまち、血の気だけで繋がってる。
烏合の衆を動かすには、道理じゃなく“恐れ”が要る。だから土方さんは鬼を演じてる」
「演じている……?」
斎藤は冷めた口調で続けた。
「忠義ってのは、私心を殺すことだ。土方さんは自分の心を殺してる。近藤さんを守るためにな」
「……守るために」
「そうだ。誰かが代わりに泥を被らなきゃ、局長である近藤さん自身が汚ねぇ仕事もしなきゃならねぇ。だから、土方さんは自分で地獄を引き受けてる」
風が一瞬止み、夜の静寂が二人を包む。
啓之助は言葉を失った。
昼間、沖田が言っていた“無理をしている”という言葉が、別の意味で胸に刺さる。
「……そんな生き方をして、苦しくないんでしょうか」
「苦しいさ」
斎藤は淡々とした声で言った。
「けど、それが“鬼”ってやつだ」
斎藤は一息置いた後にいつもの卑屈な笑いを浮かべた。
「おや?坊ちゃんには理解できねぇか?」
啓之助は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、その軽口に返答しなかった。
夜半、啓之助は義母の兄である勝海舟に向けた自身の近況報告の手紙をしたためながら、蝋燭の火を見つめていた。
沖田の純粋な笑顔。斎藤の冷たい観察眼。
そして、鬼の仮面を被る土方歳三。
(人を導くのは道理か。恐れか。それとも信じる心か)
父・象山が教えた「和の心」とは、人と人で支え合う正しさのための道標だった。
だが今の新選組には、その心が血で塗られているように見える。
火がぱちりと弾けた。
夜風が障子を揺らし、木々がざわめく。
それはまるで啓之助の胸の内のようであった。




